自分っていったい何って考えたことはありますか。自分というものはいったい何からできているのでしょう。そう聞かれてみて答える一つの方法は、自分の性格を述べることかも知れません。「私は外向的です」「私は恥ずかしがりやです」「私は人を引っ張るのがうまいです」「私は物事に対して消極的です」「私は対人恐怖です」と言うような事柄が出てきます。
これらは自分についての知識ですね。自分がこうであると言うことを知っていると言うことです。では、この自己知識と言うものはどのようにして生まれたのでしょう。
自己知識を得る一つの方法は、他の人が自分について言ってくれるフィードバックだと思います。「あなたは人あたりがいいね」「やさしいですね」「怒りっぽいね」「いつも真面目ですね」「いつも笑顔ですね」「大声で話すね」とか言われます。特に信じられる人から言われますと、「私ってそうなのかな」とか「私ってそう思われるのかな」とか考えて自分についての意見や知識として取り入れます。
それと同時によいことを言われたら、「やっぱりそうか、そうなのか」と思って自信を持てますし、悪いフィードバックを聞いた時には、それに気を付けなければ、などと思い自分を変える努力をしたりします。
自分を知るもう一つの方法は、自分を他人と比べることです。これは日常いろいろな場面で、自分の行動、感じ方、考え方、そして能力などを、他の人と比較し、その結果自分はこうだとか、ああだとかして自己知識になっていきます。
例えば、走るのが好きで、健康のためにと思い毎日走っていたとします。ある日、他の人と一緒に走る機会ができました。その結果、自分がずいぶん速くて耐久力があるのに気が付いた、とか言うことです。
こうして考えて見ますと、自分についての知識はずいぶん他の人との関係で生まれてくることに気が付きます。他の人に自分がどうであるかを教えてもらったり、自分を他の人と比較して自分のことを知るわけです。
それでは自分と言うものは他の人無しでは存在しないのでしょうか。仮に、おおかみ少年のように、ジャングルに住み、人と一切会わずに動物と自然を相手に生きたとしたら、どんな自分ができるのでしょう。想像するところ、私たちが住んでいる社会で人間として大切なさまざまな特徴はないでしょうし、自らそれがあるかないかも解らないでしょう。
でも、自分っていうものが、たとえそれが何であれ、存在するのでしょうか。私は「自分っていうものは、実際には本質はなく、独立して存在しない」と思います。自分と言うものは、相手があってはじめて生まれるもので、相手に何らかの主観があることを理解した上で、同時に自分の主観に気が付くのであると思います。
余談になるかもしれませんが、私たちに4、5、才以前の記憶がないのは、ひょっとしたらそれ以前、私たちは存在しなかったのかもしれません。つまり、私たちの母親の主観の存在に気が付いてなく、よって自分も存在しなかったのかも知れません。生後4年位経って、母の主観を知り、相手に気付いて自分の存在が生まれる。そうであれば、もちろん自分の人生は、すなわち自分というものの歴史は4、5才でなければ始まらないと言うことになります。
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