強迫行為

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石鹸をつけて何回も手を洗い、やっと終ったと思ったら、手がちょっとじゃぐちに触れ、それで手が完全にきれいでないような気持ちになり、また始めから石鹸をつけて何回も洗い直すといった行為を強迫行為といいます。

強迫行為は手を洗うだけに限られていません。例えば、電灯を一回消したのでは気がすまず、何度も点けては消すことを繰り返す人。ドアの鍵を何度もかけ直す人。運転中に人を跳ねた気がし、何度もその現場に戻ってチェックする人。家の入り方が決まっていて、それを間違ったと思い何度も入り直す人等、例は沢山あります。

今回は手を完璧に洗う強迫行為に関して心理学的に考えてみましょう。

手を洗うと言うことは、明らかに誰かから学んだことだと思います。小さい子どもを放って置いたら、手が汚れても洗わないでしょう。子どもにとって手が汚れていても、あまり気になりません。でも、そのうちに親や周りの人が手を拭いてあげますし、もう少し大きくなれば手を洗うことを教えてあげます。子どもの中には大人の真似をして手を洗いだす子もいるかも知れません。

教える側の親や周りの人が異常にきれいずきだったりすると、子どもに手を洗うことを何回も強制したり、きれいな手を保つことを厳しく教えたりします。このような親子のやり取りが続きますと、子どもは教えられた手のきれいさを保つようになります。

きれいずきであること自体あまり問題にはなりません。でも、あまりにも厳しい親や周りのある人に対して、反抗心を抱く子どももいます。この反抗心は厳しい親に対する反発、抵抗、自己主張、怒り等です。これらを行為に現して反抗できる子はいいですけれど、中には親の厳しさに圧倒され、反抗心を意識から圧迫してしまう子どももいるでしょう。

ここで人間心理の面白いところなのですが、圧迫して意識から消えた感情も何らかの形で表現されます。すなわち、圧迫された反抗心もどこかで表現されるのです。例えば、手がきれいであることを要求する親に対して、反抗心は手が汚いことであるかもしれません。

親の言うことに従って子どもは手を洗いますが、それをし終わった瞬間に反抗心が働いて手が汚くなるのです。もちろん実際には、手は汚くありません。子どもの心が働いて手が汚く思えるのです。今度は、手が汚いので親の言い分に従って手を洗います。ちょうど自分の反抗心に対しての罪を洗い落とすかのようです。でも、それが終った瞬間にまた反抗心が出て、手が汚く思えます。このようにして手洗いを繰り返すのです。

強迫行為は不安な時に出やすいです。不安の背後には親を殺そうと思う激怒や親に逆らう反抗心が潜んでいるかもしれません。このような怒りが出始めますと、手を一生懸命洗い、親の言った事をよく聞いているんだ、従っているんだと言い聞かせ、親との接点を保つのです。そうすることによって自らの怒りを再度圧迫し安定感を得ようとします。手は自分の怒りで汚れ、それを洗うことによって安心を感じるわけです。

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