誰でも憎しみを経験することはあります。憎しみとは、愛情の反対のような感情です。愛情が「好き」と言う気持ちよりもっと強い感情のように、憎しみは「嫌い」というのよりもっと強い感情です。
私たちは人を憎むことがあります。憎む人のことを考えると憎しみの気持ちが湧いてきます。自分にされた不正なことを考え、怒ってどのように仕返しをしようか、どのように相手を懲らしめるか必死に考えます。
私たちは自分を憎しむこともあります。Self-hatredと言って自分に対して非常に破壊的な感情です。自分に憎しみを向ける時には、性格や言動の一部に焦点をあて、自分を痛み付けるかのように扱います。また、わざと危ない行動をして、自分の身を危険にさらしたり、他の人に意地悪をして、自分を嫌わせたり、直接、自分を切ったり、転んだりして、痛い目を味わせたりします。
他に、ある集団に対して憎しみが向けられることもあります。その集団の特徴、例えば、人種、宗教、国籍、ライフスタイル等で特定できる集団を憎しみます。自らの経験でその人なりの理由はあるのでしょうけれど、憎しみが表現される時には、不特定人物が相手となります。Hate Crimeといってある集団の人に危害を与えたり、嫌がらせをしたりする例がありますし、差別として憎しみを表すこともあります。
憎しみの要因は、自分の中の不快感から始まります。不快感は遺伝的に心身に先天的な形で存在するのでしょう。私たちは不快感を感じるとそれを取り除きたいと思います。簡単に取り除けて忘れてしまうこともありますし、なかなか取り除けなくていやな気持ちが続く時もあります。
不快感を経験した時、私たちの周りの環境にそれと関係がありそなことを探します。そしてそれを不快感の原因であると考えます。実際に原因であるかどうかはどうでもよいのですが、肝心なことは、その要因を取り除くことによって、不快感が消えると思うのです。それで不快感が消えてしまえば、憎しみにはなりません。もし、不快感が取り除かれなくて、周りの原因と思われる物も取り除けない時、それに対して憎しみを感じるようになります。
不快感は自分の気持ちで、誰によって与えられたものではないと考えると、不快感は意外と簡単に消えてしまうのですが、誰かによって与えらされたのだと思うと、その人を破壊するまで憎しみは消えませんから、かなり頑固な感情となってしまいます。
愛と憎しみは裏返しのようでもあります。愛されるべき人から愛されないと、その人に対する憎しみに変わります。愛する相手は自分の不快感を取り除いてくれると信じがちです。それを訴えても相手が自分を不快から救ってくれなかったら、徐々に憎しみに変わるでしょう。
憎しみは相手を懲らしめたり破壊したいという気持ちです。その気持ちにしたがっていろいろな意地悪をします。でも、自分の憎しみの根底にはまだ相手に対する愛情が残っているかもしれません。その愛する相手を懲らしめるのですから、相手が本当に傷ついた時、自分は罪に陥ってしまいます。愛していれば愛しているほど、傷つければ傷つけるほどその罪悪感は強いでしょう。
そのようにして生まれた罪悪感は自分を破壊してしまいます。憎しみによる他人の破壊は、自分の破壊にもなるのです。なぜなら、もともと憎しみは自分の不快感に対して当てられた物だったからです。その自分に対する憎しみを抱えているのは耐え難いです。それを自分から取り除き誰かに投影して、その人を憎んだほうが、楽なのは確かなのですが。
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