私達は性格と言うものを持っています。明るい性格を持っているとか、やさしい性格をしているとか言います。性格は私達の一定した特徴のことです。人のある面がどんどん変わっていったら、それは性格とは言いません。ある人が外交的な性格だと言った時、その人がいろいろな場面で外交的であり、また、今月も来月も外交的であることを期待します。それゆえ、性格と言うわけです。
人の性格は観察していてよく解りますが、自分の性格はそれほどよく見えません。ちょうど目(視覚)は物を見ますが、目自体を見ることができないかのようです。自分の性格を理解するには、他の人と比べて見たりすればよいのですが、何せ主観はバイアスが多くて、自ら他の人と比べて自分を正確にはつかめません。結局、長期間に渡って少しずつ得られる他の人の自分についてのコメントに頼りながら自分の性格を知っていきます。まあ、それも他の人の自分についての意見ですから、客観的そうでありながら、結構いいかげんなところもありそうです。
自分の性格を知るのに一番難しいと思われる点は、各々の性格は自分の性格ついて見えなくしてしまうと言うことでしょう。私達は自分の性格に付いて盲目であるということです。その代わりに、私達の性格を原点に置いて、それと比較された他の人の特徴が見えてきます。
例えば、他の人をコントロールし自分の思うとおりに行動させようとしたり、自分の考えを通そうとするような性格の人がいるとしましょう。自分にとってしていることは極普通に見え、たいしたことではありません。そして、自分にとって他の人は、何をしているのか解っていないように見えますし、何が正しいのかもよく見えていないように思えます。ほっておいたらいい加減なことをして物事をだいなしにするようにみえます。ですから、自分は他の人をガイドしていかなければならないと考えます。他人が自分を勝手で、プライドの高い人などと見ているなんで考えることは少ないことでしょう。
また、依存心が強くて、物事をする時に他の人の助けを求めたい人がいるとしましょう。自分の方から見えることは、物事が難しい、自分だけでは決してやりこなせないように見え、それを手伝ってくれる人はやさしくてリーダーシップのある尊敬できる人であると思います。その逆に、よく手伝ってくれない人は、冷たくて人情がなく見え、そのような人に怒りも感じてきます。人助けはお互いに必要なものとして見ます。ところが、他の人の中にはそのような自分を恥知らずの弱者と見る人がいることを知ったら、ショックを受けることでしょう。まさか自分がそんなふうに見られるなんて、考えもしていなかったことでしょう。
この例は少々大げさかも知れませんが、要するに私達は自らの性格について盲目なところがあるということです。私たちの性格はそれが自分の基準になってしまいますから、それ自体を直接見ることができません。
これを書きながら私が思うことは、皆さんに見える私の盲目な点はいったい何なのでしょうね。
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