私達は毎日他の人達とコミューニケーションをとりながら生活をしていますが、気がついてみますと誤解がかなり多いですね。たとえ、うまく伝わったと思っていても、実は違う意味にとられていたことなどは少なくありません。
よく考えてみますと、私たちの表現する意味は、そのときの情況によってかなり変わってきます。「私は海へ行きます。」は、真夏のバケーションとして聞くこともできますが、その言っている人が過去一ヶ月間落ち込んでいたとしますと、ひょっとしたら海に身を投げて自殺でもするのかなと心配になったりもします。この言語の意味を変えてしまう情況とは、いったいどんなもなのでしょう。
心理情況のことを心理学英語ではcontextと言って、私達のコミューニケーションの意味を調整する枠や背景のことを言います。心理情況はいろいろな要素を含んでいます。身近なものから見てみますと、話し相手との人間関係やその時の気持ちから始まって、二人の間に起こった過去の出来事、家庭や職場、または遊び場などの環境的な要素、そして私達が育った生い立ちの様子やそれが起こった文化的環境などまで広がっていきます。
こんなにいろいろな要素があるにもかかわらず、コミューニケーションをとる二人の心理情況が一致したときだけ正確に理解をし合えるのですから、かなり難しいと思いませんか。日本人同士で同じ生い立ちを経た二人が何年も結婚生活をしてやっと心理情況が一致したとき、以心伝心などと言うものが成立するようになります。アメリカ社会の様に、いろいろな人種がいて、人々の背景に多くの違った文化や言語環境が存在しることを考えますと、以心伝心などもちろん不可能であるだけでなく、お互いに理解しあうだけでも難しいのは当たり前のこととなります。
ここで関心が向くのは、アメリカ人と国際結婚をした日本人たちです。二人を結ぶ恋愛感情はさて置いて、結婚初期は言語の壁のために相手の言っていることが解らないことが多いだけでなく、相手の性格や思想、文化の違いで心理情況の一致が起こることはほとんどないことでしょう。その上、毎日の心理的問題が理解されずに歩んでいくのですから、かなり困難な生活を乗り越えて行くわけですね。まあ、日本人同士で結婚したからと言って、簡単にすまされるわけでもありませが。
暴言や暴力をふるう結婚相手の心理情況は、その人にしてみれば、しかたなく当たり前の事です。それに対抗する相手の立場は、暴力を許される心理情況を受け入れて同じく立ち向かうか、またはそれを拒否して相手の暴力的心理情況を止めさせるか、離婚をするかなどの心理情況に追いやられてしまいます。
もちろん現在のアメリカ社会で、家庭内での暴力的心理情況は、法律的に受け入れられていません。でも、その心理情況が存在するのは確かですし、少なくないと思われます。家庭内の殺人事件は結構耳にします。また、飛躍した話では、平和を主張する国が、敵国の兵隊を殺してもよいとする心理情況を受け入れるまで、さまざまな条件によって信じられない心理情況が存在するわけです。
私達のコミューニケーションギャップが心理情況のぶつかり合いによって起こります。自分の心理情況、そして相手の心理情況を理解することによって、コミューニケーションがうまくいきます。手っ取りばやい話、私達の表現の中に、自分の心理情況を含んで相手に説明し、その上に本来のメッセージを伝えたらよいかもしれません。「おーぃ、お茶!」の代わりに、「子供が、お茶を部屋に置いておくと、ハエがそこに落ちるようになると言うのを本でよんだそうだから、今から二人でそれを試してみようと思うので、お茶と作っておくれ。」と言ったらもっとよく通じるかも知れません。
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