明らかに自分にとっていやなのに、人前ではそう言わない人がいます。誰かに何かを頼まれた時、その時はすすんでしてあげる気持ちがないのに、引き受けてしまう時があります。また、明らかに自分のためにならないと理解できることでも、それをしたがることがあります。例えば、ある学生が自分のためになる授業を休んでまでも、友達の世話をしたりします。その上、その友達はそれほど助けを必要としていないことが解っていても、世話をしたがるから不思議なものです。
このような行動をいかに理解したらよいのでしょう。この行動は、表面的にみますと、明らかに自分のことより相手の利益を考えています。この行動をする人に、なぜ自分にとって苦労なことを、自分のためでなく、相手のためにするのか聞いてみますと、「相手に嫌われるのが嫌だ」というような答えが返ってきます。相手に拒絶されたり、無視されたりするのが怖いのでしょう。もちろん、相手に嫌われるのは、通常よいことではありません。でも、自分の欲求、要求を通さないでいても、不満になります。
ここでちょっと思い出すのが、小さい子で自分の欲求が沢山あるのにかかわらず、母親にいい子であると思われたいがために、母親の言うことをよく聞いて、とてもいい子にしている子のことです。子供はほとんど100パーセント親に頼っていますから、親に見離されたらたいへんなことになります。それゆえ、親に認められることが、非常に大切になるわけです。もちろん、母親が子供にはっきりと愛情の確信を伝えられている親子では、子供はそんなことを気にしないことでしょう。ところが不安な子は、親に嫌われまいと頑張るわけです。こういう親子関係では、子供が自分の欲求や要求を満足されることより、親の満足の方が大切になってしまいます。
小さい時できた癖っていうのはなかなかとれないものです。この癖をそのまま大人になってからも使い続ければ、親の代わりに、現在、関係のある相手に同じような期待をします。そして、その人に見放されないように、自分の欲求や要求を飲み殺して、相手の要求に答えるようになってしまいます。
一方、母親から安心感を与えられ、自分に自信がつきながら育った子は、自分の欲求を正確に受け取れ、自分の満足のいけるように、成長の過程を歩んでいきます。人に認められたり、好かれたりすることは大切でしょうが、自分の欲求と相手の要求がぶつかってしまう時には、自分の欲求をいかに相手を最小限困らせないで、現実化するかを工夫していきます。
他人の拒絶や無視を気にする人、すなわち自分の欲求をこらえてしまう人でも、成長をしながらいつか自分の欲求が無視できなくなる日が来ることでしょう。その時には、自分の欲求と相手の要求が、ぶつかり合って心の葛藤になります。そしてこの葛藤はその人にさまざまな精神的痛みを感じさせます。ある人はそこで後退して、自分の欲求を押しやってしまいます。また、ある人は自分の欲求の大切さを自覚し、最初は無理しながらも、自分の主張を通すようになります。
人の精神の発達上、このような自己の発達の順序に必然的なものがあります。自分を確立した後は、相手の要求の心配や不安は少なくなります。そして、相手の要求の心配が減ってきたことじたい、自分の確立が進んでいる証拠です。自分の確立ができた時に、再び相手との調和を考えるようになるのですが、そのことについては、また次の機会に考えてみましょう。
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