私たちは二つの世界に存在すると見ることができます。一つは他の人達と共有できる世界。もう一つは自分だけの世界です。私たちが誰かと話をしている時には、お互いに共通した世界にいると感じます。木が緑と言えば、相手はそれを解っていると思えますし、明日の5時と言えば、お互いにいつのことか解った気がするものです。この世界は、自分と相手とで、分かち合える世界で、これがないと毎日大変なことになってしまいます。
もう一つ、自分だけの世界があります。自分では経験する世界ですが、誰にもそれを言ったりすることがありません。起こった事、考え、感情、行動、イメージ等いろいろありますが、自分だけが知っていることです。その一部を誰かに伝えようとすれば、できないことではありません。誰かが聞いてくれたり、解ってくれたりしたら、その人と共有することが可能になるかもしれない世界でもあります。
他の人と共有する世界は勝手に変えることができません。赤信号で止まらなければならないのを、青信号で止まることに自分で決めたら、大変なことになってしまうでしょう。でも、自分の世界は、もっと融通がききます。寝る前におまじないとして寝床の回りを3周することにある日決めても、また、それをある日5周することにしても、他の人にとってはどうこうありません。
自分の世界の融通性は、徳でもありますし、悪でもあります。自由な世界ですので勝手にものを考えることができます。そしてそれを皆と分ち合える世界に出した時に、創造の豊かさを理解してもらえる時と、また、逆に、気狂いざたに扱われることもあるでしょう。自分で大切と思っていたものを誰かに伝えようとして、その結果、気狂い扱いされたり、無視されたり、怒られたりしたら、それを自分の中に永遠に秘めてしまうかもしれません。そしてそれは他の人が触れることのない未知の世界となってしまうでしょう。
このような他の人に受け入れられない世界は、自分でも受け入れられない世界に化していくかもしれません。そしてその世界の量が増えれば増えるほど、自分の存在が否定されていくようになります。なぜなら、たとえ自分の世界のある部分が誰かに否定されても、それは自分にとって現実であるからです。自分の現実を否定されるほど辛いこともないでしょう。
秘められた自分の世界。それはたとえ他の人に否定されたとしても、自分にとっては大切な世界です。なぜならそれが自分である証拠であり、それは自分を保つため、守るため、そして自分が粉々に破壊される不安から守ってくれる重要な現実だからです。私たちは自我の破壊を恐れます。自分がバラバラになるのが恐いのです。それは心理的なのもですが、根底には自分の死の恐さがあるのかもしれません。その自我破壊の不安から守るものが、自分特有の内の世界なのです。自分の秘めた世界は、破壊不安を制御するために工夫された組織だったのです。
この意味深々の自分の世界を他の人に解ってもらえたら、自分の存在はますます強化されるでしょう。逆に、それが大半否定されたら、破壊不安を制御することがうまくできず、自我が分裂されるかもしれません。分裂病と言われる状態は、破壊された自我のバラバラな世界が幻聴、幻視、そして妄想として表現されているものだと思われます。
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