いつまで経っても、答えがないような質問なのですが、いったい「自分」て何なのでしょう。もう一度自分を振り返ってみて、考えてみようと思います。
以前(2005年1月)に、「無意識の自叙伝」と題しまして、自分というものの側面を書きました。そのとき、「私たちは、知らずのうちに、自分に関する記録を残しておき、それが重なって自分というものの歴史に成っている。」という考えを述べました。
この種の自分というのは、「振り返って見る自分」という意味で、いわば自分を客観視している状態です。自分がそこに住んだとか、自分が怒ったとか、自分がそれをやり遂げたとか、などの事実的なものから始まって、自分が幸せであるとか、罪人であるとか、仕事がうまいだとか、主観的なものを、もう一度振り返ってみたものも含まれています。
この種の自分は、よく考えてみますと、ただの概念であります。この自分は実際に存在しませんが、頭の中に考えとして存在するものです。自分についてのいろいろな記憶として存在する考えの集合物であります。実際に触ったり、扱ったりすることはできません。ですから、記憶喪失になった人が、自分のことを忘れて、それまでに存在していた自分が、消え去ってしまったということもありえます。
しかしながら、私たちは通常それが存在するかの様に、感じますし、扱っています。ですから、自分を大切にしたり、自分を嫌ったりすることができます。ある意味この架空の自分に価値を付けて、自尊心(セルフエスティーム)とよぶこともします。そしてある人は、ほどよい自尊心をもち、人間関係において、自信を持って活動しますし、また、この自尊心を守るために、喧嘩をしたり、殺人や自殺までする人もいます。
また、他の種類の自分も存在します。それは、ここまでお話してきた、「振り返って見る自分」の振り返りをしている自分です。これは主観である自分で、自分という意識はありますが、無形で見ることも触ることもできません。たとえてみますと、目は物を見る事ができますが、その目がそれ自体を見ることはできません。ですから、主観は物を意識することはできますが、主観自体を意識することはできません。主観を意識した瞬間、それは主観でなくなり、主観の中の意識されたものと化してしまいます。
主観は常に現在進行形です。主観は過去でなく、未来でなく、今存在します。寝てしまうと主観は消えてしまいますし、夢を見ているときには、主観を感じとることができます。また、主観は感情によって影響されますし、精神状態、薬、麻薬などによって左右されてしまいます。面白いことに、主観は人が生まれてから発生しますから、私たちは生まれることを経験できませんし、急にある日から、自分の存在が始まったかのように思えます。同じく、人の死が起こる前に主観は消えてしまいますから、死を主観によって経験することはできません。
また、主観があるために、「振り返って見る自分」を意識できますし、自分の過去や将来を考えることができます。そして主観があるために、もう一つの自分、すなわち「意志としての自分」を経験できるのです。
意志とは、自分が何かをしたい時に出る一種の力です。Will Powerといいまして、よく考えてみると、その力はどこから来るのか解らないのですが、ふとそういう気持ちや気力を感じます。それを感じて、自分の存在を感じるわけです。ある事が、意志によって起こると、自分がしたといいますし、ある事が意志とは関係なく起こると、自分でないといいます。
意志となって、そしてそれを自分として感じる前に、欲求や衝動というのが起こります。でも、欲求や衝動は自分として意識しないものもあります。例えば、残虐的衝動や同性愛的欲求などは、自らの自分の定義と異なるため、人によっては、自分としてとらえないこともあります。そのために、これらの衝動を抑圧し、意識にも含めない状態となることがあります。ですから、意志は自分となっても、欲求や衝動全体は自分とはなりえないということです。
私たちの身の回りの現象のなかで、あるものを自分としてとらえ、他は自分でないとしているわけですが、自分て、かなり曖昧ですね。
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