愛する人に対して怒ることは、多かれ少なかれ起こります。愛しているからといって、喧嘩をしないわけではありません。それが夫婦関係であろうが、恋人関係であろうが同じです。
不思議なことに、怒りが始まってしまうと、簡単にはやめられない時があります。愛している人に対して怒りが続きます。それで嫌なことを言ったり、悪いことをしてしまったりします。いやいやしているのではなく、欲求があって、相手を傷つけるようともします。相手を愛しているのに、なぜそんなことをしてしまうのでしょう。
この怒りを説明するのに、心理学では一昔、「死の本能」 (death instinct, thanatos)と言う基本的なモーティベーションを唱えました。そこでは、人間には愛と死の力が根本的なことろにあって、愛が人々を寄せ合う力に対して、死の本能は、命を破壊する力で、人々を避け離すだけでなく、自分や他人を破壊するモーティベーションであると言うのです。
この考え方で誤解し易いことは、愛と死の本能は、正反対ですので別々に作用し、同時に作用することはないと思ってしまうことです。すなわち、愛する相手に怒りが向いた時、死の本能だけが働いているので、相手を破壊したいのは当たり前のこと、その上、相手から離れる力が働くはずです。怒っているときに、「あなたなんか見たくもない」という例があるように、死の本能によって相手に距離を置くか、去ってしまうかすると考えがちです。ところが、実際にはそのようなことにはならず、怒りながら、相手をアタックすることを、楽しん(?)だり、心の中で相手のことを考え続けたりし、相手から離れてしまうというわけでは、決してありません。
ということは、表面的には怒りで見えなくなってはいるものの、相手にくっ付いてしまう力が働いているようです。すなわち、愛の力が消えたわけではありません。2人を寄せあう力が働くと同時に、破壊する感情=怒りが隣同士に存在していると言ったほうが正しいでしょう。ですから、引き付ける力と裂き離す力が共存し、非常にテンションの高い状態になっています。愛だけ存在するときの、穏和な状態ではなく、それを乱す作用も働いているので、愛の力は怒りに反動し、より強い状態に転化します。この愛情の強さが、いわゆる愛する相手に対する怒りの魅力とまでなっていきます。怒る愛は、強く、魅力的だということになるのでしょうか。
臨床的によくあることで、日常も経験することですが、今まで好きだった人に対して怒り、それが進んで憎悪にまで発展し、自分にとっても相手にとってもためにならないのは理解してはいるものの、それをやめることができない状態があります。このような時に、怒りの愛の強さと魅力を感じます。怒る本人は、何故かひきつけられたように、やめられません。心の根底に存在する相手に対する愛情と、相手への依存からくる欲求が相手を放しません。
一方、怒りをぶつけられた相手は、その怒りの捌け口として、黙って入れ物のように使われるのはいやですから、反動的に自分を守り、相手に怒りを返します。よって、その人も相手の破壊に走ってしまいますが、それと同時に、愛が相手を完全に破壊させませんし、相手から離させません。それで、怒りのやりとりがサイクルのように、継続してしまいます。
はたして怒る愛の人間関係は終わることがあるのでしょうか。人によっては、人格形成上、死の本能に基づく怒りが強すぎて、関係を破壊してしまうときがあります。または、死の本能を愛が中性化することができ、怒りが治まって、以前の平穏な建設的な人間関係に戻ることもあるでしょう。怒りは火に油を注ぐようなことをしなければ、時間と共に自然消滅します。また、セラピストを一時的貯蔵庫として使い、怒りの吐き出しをしても、それが減ります。怒りが減ったところで、相手の悪化されたイメージを、良い点を思い出しながら中性化することで、愛情のある関係が戻ります。
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