「結婚は二人の道徳をもとにした、第三の道徳を必要とする。」(Dr. 小林の生活の心理学、2001年12月15日号、結婚の10条+1)
自分か相手か、と言う葛藤は、解決がなく永遠と続くかのようです。自分を立てれば相手が倒れ、相手を立てれば自分が救われない状態ってよくあると思いませんか。もう少しよく見つめてみると、自分の欲求を通そうとすると、相手が怒ったり、または無視をすることによって、傷つけたり迷惑をかけたりしてしまいます。その代わり、相手に合わせていては、自分の好きなことができません。欲求不満がたまります。
しかしながら、ここでいう自分とは、いったい何のことなのでしょう。
欲求が自分の現れであることは確かです。欲求を現すことによって、自分と相手との境目がはっきりしてきます。自分の欲求と相手の欲求が異なるからです。それに付け加えて、自分の考え方、自分の何かに対する気持ち、自分の想像なども自分に含まれています。これらは自分が一人でいる時によりはっきりと経験できます。でも、誰かと一緒にいるときには、相手に対する考慮が働くため、一時的に自分の特徴がはっきり見えないときもあるでしょう。
これらの欲求を持って誰かと接したとき、自分の欲求を丸出しにしては、相手に受け入れられないと思いながら、私達は相手に合わせて人間関係を続けていくことを学びます。すなわち、ある程度自分を抑えたり、我慢をしたりしながら、付き合いをしていきます。
日常一般的な人間関係ではそれでよさそうですが、もっと近い人間関係では、そのように続けていくのはたいへんです。結婚関係を例にとって見てみますと、最初のうちは相手に嫌われることに関して敏感ですから、お互いに譲り合いが多く、自分の欲求や本当の姿を見せません。ところが時間が経つにつれて、次第に遠慮も減り、本音の表現が多くなっていきます。
そこでよくあることは、相手が自分の欲求に対応してくれないので、怒って喧嘩になったりします。確かにハネムーン後の若い夫婦は、喧嘩が多いです。それまでどっちかと言うと、お互いに同じところ、相手のよいところに焦点がいっていたのに、しばらくの同居生活の結果、違いが明るみに出てき、相手が期待はずれの行動をするのに気が付いて、がっかりしたり喧嘩をしたりします。
でも、面白いことに、しばらくすると、喧嘩が減って仲良くなる夫婦もいるではないですか。いったいこれは何が起こったのでしょう。
喧嘩は必ずしも必要ではないのですが、お互いが本音で接することが十分存在すると、夫婦の間に分かち合える経験、もしくは現実がおこります。2人が本音同士で向き合い存在し、何かをするときに、2人とも同じ現実を経験することができます。その経験はそれまで一人ではできなかった、新しい経験です。これが何回も繰り返されて、2人だけが解る、そして2人だけが分かち合える、現実が生まれてくるのです。
この新しい現実、相手の物だけでなく、自分の物だけでもない、2人が共有する第3の現実は、自分達のアイデンティティーの一部となって発展していきます。今まで、相手との違いがあるために、フラストになったり、失望したりする代わりに、2人とも第3の現実、共通点から物事を理解して行動ができるようになります。