2009年12月アーカイブ

外国語の習得

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kotoba.gif外国語を習いながら気が付くことですが、言葉を習うのに視覚的記憶と聴覚的記憶というのがあります。学校に入ってから、または大人になってから外国語を習うと、文字を読みながら習うことが多いので、言葉は視覚的記憶visual memoryに入っていきます。ところが、それに頼って外国語を話そうとすると、なかなかうまくいきません。ちょうど頭に浮かんだ文字を読むかのように、発音をしていきますから、時間がかかるだけでなく、発音も正確ではありません。

変わりに、外国語の音を何度も聞いて、言葉が聴覚的記憶auditory memoryに入っていますと、それを話そうとするとき、案外スムーズに出てきます。話すことは音を出すことですから、言葉の音声を覚えていれば、それをすんなりと使えるわけです。

ですから、話すのを目的として、外国語を習おうと言うのであれば、その言葉は聴覚的記憶を使って習得するべきでしょう。ちょうど小さい子が、未だ文字を読めないので、生活の中で音を聞きながら言葉を習っていくのと同じです。

でも通常は、大人の癖で、外国語を文字から習ってしまったり、発音と同時に文字を習っていきます。そして発音をしようとする時に、頭に文字が浮かび、聴覚的記憶から直接発音をしようとするプロセスを邪魔をしてしまうことが往々にしてあるのです。結果として言葉がスムーズに口から出ません。

ちなみにこのプロセスを脳の働きに置き換えて考えてみましょう。先ず、耳から入った音声のパターンが認識され記憶されます(主に左脳の側頭葉)。その音のパターンに意味が付きます(主に左脳の側頭葉だがその後方にある角回angular gyrus の作用も含まれる)。発音をするために、音声イメージが口の運動に転換されます(左脳の前頭葉)。

文字の視覚的記憶は、後頭葉に保管されていますから、その視覚的イメージを左脳の前頭葉で読みながら発音をしようとすると、左脳の側頭葉に保管されている聴覚的記憶の回復を邪魔し、正確な発音の発生を妨げてしまいます。大人になってから外国語を習うと、このような障害を自ら作り上げてしまうので習得が遅れてしまうこともあります。

また、外国語を習うということは、これまでの話から想像できるように、脳の様々な部分を磨かなければなりません。読みと書きは脳の違う部分で操作されていますし、聞くことと話すことはまた違った部分でコントロールされています。すなわち言語を一つ習得すると言っても、四つ又はそれ以上の機能を発達させなければなりません。そして、その四機能は関係の深い部分でもあるのですが、違った回路で成り立っています。ですから、外国語を話せるけれど、聞いて理解はできないことはありますし、読めるけれど書けない、また、聞いて解るけれど話せないとか書けないとか、いろいろな状態が個人差で生まれてきます。

外国語を習うに当たって、何のためにそれを習うか、将来の用途を明らかにしておいたほうがよさそうです。例えば、ある国の情報収集が目的なら、読むことを中心に外国語を習えます。また、人間関係でのやり取りを目的としているのであれば、音声を中心とした言葉の習得に力を入れることが大切でしょう。

一つの外国語を自由自在に使えるようになるには、読み書き、話す聞くと4カ国語を習うかのようです。そして最初の機能、例えば話すことを習うのに数年かかるのがあたりまえとして考えると、全部を使えるようになるのに10年かかっても不思議ではありません。子供も10年以上かけて母国語を習います。

brain.gif一見すると、自分の内面の世界と、自分の心の外のいわゆる現実の世界との区別は、はっきりしていて簡単なように思われますが、実際どうなんでしょう。今回はこのことについて、もう少し観察を深めてみようと思います。

強迫観念障害とは、馬鹿げていると解っていながら、頭からぬぐいされない考え、すなわち強迫観念と、そのためやむなく生ずる行動を繰り返ししてしまう心の病です。よくある例は、手にばい菌が付いたと思い込んで、何回も手を洗ったり、灯りを消したのですが、それでは気が済まず、戻って何回も電気をつけては消す行為を繰り返したりすることです。

この例から解ることは、本人は心のどこかで現実を知っていて、手は既に清潔だし、また、電気は既に消灯していると解っています。でも、強迫観念がそうではないと主張し続け、その結果現実を無視して、手を洗いなおしたり、電気を消しなおしたりします。自分の内面の世界によって、外の現実が変えられてしまうのです。

このような出来事は、強迫観念障害だけに限ったものではありません。もっと日常の身近な分野でも見ることができます。私達が知らない間に、「あの人は私のことを変だと思っている。」なんて考えてしまったりすることがありませんか。実際に相手が自分のことをどう思っているかは、解りませんし、それを知ることもなかなか難しいものです。しかしながら、自分としては、相手がどう思っているか、知っているかのように行動します。すなわち、自分の内面の気持ちが、実際の現実を変えてしまうことになるのです。

このような現象が顕著に現れる人の例として、対人恐怖症があります。ある意味日本で特有な心の病と言うことができるでしょう。普段から、人のことを気にしすぎる癖と、自分の自信なさが重なって悪化するものと言えるでしょう。そしてこの場合、困っている人は、他の人が自分のことを異常であると思っていると心配し、人前に出るのが恐くなるのです。その異常と言われる内容は、人それぞれで、中には自分の外見の一部を気にする人もいますし、自分の体臭を他の人が気にしているなどと心配する人もいます。

それでは、今までの考えとは逆に、自分の内面と外のいわゆる現実がはっきりして、別々になっている状態を考えて見ましょう。これは、自分で考えることや感じることは、自分にユニークなもので、必ずしも他の人が思っていることと一致しないという理解と態度です。ですから、

A:「私は今楽しんでいます。あなたは?」

B:「私は苦しんでいます。そしてあなたを嫌いです。」

私が楽しんでいるからと言って、相手が同じく感じるとは限りませんし、相手が自分を嫌いだからといって、自分の楽しみが止まることもありません。すなわち、2人の主観は別々であるということになります。ですから、

A:「あなたが私を嫌いな気持ちは尊重しますし、あなたが苦しんでいることを想像できます。」

B:「あなたは今、楽しいのですね。それは解りますし、あなたにとってはよいことだと思います。」

このようなやり取りが成り立つには、自分の考えや感情を素直に受け入れることが前提です。そして、自分を受け入れると同じく相手の考えや気持ちもそのまま受け入れなければなりません。そうした時に、相手が自分を嫌いなら、その現実を変えようと、何かをする必要はありません。相手が自分のように楽しんでいないので、現実を変えるために、相手に何かをしなければならないと思わなくてもよいのです。逆に、相手に合わせて、自分の考えを変えることもないでしょう。