2013年4月アーカイブ

欲求の秘密

| コメント(0) | トラックバック(0)
ある人がこぼしていました。「何かやろうと感じる時はあるのですが、その気持ちが直ぐに消えてしまって、結局何もせずに終わってしまう」と。また、ある女性が「家の旦那は、私の気持ちを全然大切にしてくれない。私に何もしてくれません」と嘆きました。

これらの例は、欲求が起こらないことで、問題となっています。その逆に欲求があり過ぎて困ることもあります。「タバコを吸う欲求が消えない」、「過食する欲求が消えない」、または「ゲームをする欲求が消えない」がその例です。

今回は欲求に関してちょっと深く調べてみようと思います。

上の例を考えてみますと、単に欲求が強いとか弱いとかでは、完全に欲求のことを説明できません。もう一つの次元で、欲求が自分の内部にあるか外部にあるかの位置を考えに入れることによって、その理解が進みます。

誰かに何かを頼まれた時、それをしようと思って、欲求が沸いてくるとします。そして、相手が「もう、いいです。用がすみました。」と言うと、欲求がなくなってしまいます。この場合、欲求は最初から自分のものではなく、自分の外に存在して、一時的なものであると考えられます。

こんどは、何かに刺激されて、ちょっとしたくなったとしましょう。映画の予告を見て、見てみようかなと思ったときなどがそれにあたります。でも、そのうちに忘れてしまって、どうでもよくなってしまいます。これは自分の欲求で、内部から出てきたものですが、まだ、自分の真から出てきたものではないので、自分の表面的な部分に位置しています。

次に、自然にこれをしたいと欲求が出てくる場合をみてみましょう。別にこれと言って刺激があったわけではありません。ただ自然に自分の中から沸いてきたように感じます。この欲求は自分のもっと内部に位置するもので、通常欲求として、扱われているものだと思います。この種の欲求は簡単に変化が起こりません。ある程度一定していて、継続するものです。長期のゴールに向かって進むような時に、このように内在化された欲求が必要になります。

私達の欲求は、ほとんどの場合外から来たもので、それが次第に性格の一部として、確立されていると考えられます。外と言いますと、それは私達が生まれる前から存在し社会に深くしみ込んでいるもので、ある意味社会の性格とか存在目的とか言うものから始まり、親や教育を通して、子供である私達に伝えられてきます。最終的には、欲求は私達の性格の一部として存在し、その性格を守るかのように、そして存続を保証するかのように働きます。

例をあげてもう少しよく見てみましょう。ある人が航空宇宙技師になりたいとしましょう。このような技師は、先進国では貴重な存在で、高収入でもあると同時に、社会でも認められた地位を持っています。

昔ですとか、発達途上国社会では無い職なので、そこではこのタイプの技師になる欲求は生まれてこないでしょう。でも、先進国では、子供がそれを知る前から、社会でこの職の重要性を認めています。

親が子供をそれになるように願いながら育てることもあるでしょう。でも、大体の親はそこまでの欲求は無いにしても、子供が将来いろいろな可能性を持てるように、勉強を一生懸命させようとします。この欲求は親のものですが、子供がうまく導かれれば、勉強自体が子供の欲求になることはあるでしょう。

このようにして勉強し、いろいろな経験をつんでいく間に、子供が航空宇宙分野に興味を見せるかもしれません。でも、その興味を実現するには、社会の欲求を飲んでいかなければなりません。それは、ある種の学校へ行き、ある種の勉強をし、ある工学に専念しなければなりません。それがかなった頃には、社会の欲求や親の欲求が子供の性格の一部となり、内在化するようになります。

こうしてみますと、欲求は外から存在するものが性格の一部になっただけでなく、性格自体が欲求を満たすためや、欲求を保つために作られていると見ても不思議ではありません。外からの欲求が性格の一部となり、それが欲求を保ち、欲求を表現することによって性格がますます強化されていきます。

ちょっと変った話で、人を愛することや、セックスを楽しむこと、そして子供を作る欲求も、先天的に存在しているものではなく、周りの社会がそれに価値を見出し、社会を守るかのように、子供にそれらの欲求を埋め込んでいくと見ることができます。セックスや子供を作ることは本能ではないですか、と疑問を抱く人もいるかもしれません。確かに、身体に具わった機能ではあります。しかし、私達がそれらを行動に移すとき、その欲求は人間関係内での意味に基づいて発生すると考えられます。

また、面白いところで、納豆を食べたい欲求は、日本人社会独特のものと見ることができます。他の国の社会では、納豆自体知らないのがほとんどですし、納豆を口の近くに持っていくだけで、吐き気がするのが自然の反応のようです。ところが、多くの日本人は納豆のにおいをかいで、おいしそうと思ったり、お腹がすいたりするのですから、面白いものです。正に、日本文化で教えられた、独特な欲求としてみることでできるでしょう。

最近のブログ記事