P&Gが制作したOlymipians の母親というビデオクリップがある。10人ほどの母 親をインタビューしたものだが、母親であることをものすごく考えさせられた。 彼女たちがどのように自分 の子どもたちをオリンピック選手に育て上げたかを つづったドキュメンタリーでもある。
ある母親は決してプレッシャーを与えなかったという。常に楽しめることを強調 したという母親。子どもたちはどこかで挫折しそうになる、そういうときにやめるのは簡単、けれども続けてこそ価値があると教えた母親。恐怖に立ち向かう ことを教えた母親。人生スポーツだけでなく、普通のティーネー ジャーとして の生活も大切であり、そのバランスをいかに保つかを教えた母親。そして、なによりもLove and Support をしつづけたすべての母親。あなたはなんにでもなれ るのよと教えた母親。失敗からは学べばいいのだからと伝えた母親。
選手も「母なしにはここまではこれなかった。」という。母は強い。子どものた めとなったらものすごい力が出る。どんな恐怖にも立ち向かえる力を備 えてい る。母親の愛というのは特別なものだ。Unconditional love であるからだ。なぜこれほどまでにも子どもに対して愛情を注げるかなど説明がつかない。どうし て?ではない、ただ子どもが大切に思えるから、一番大切に思 えるから。
人間として生まれてきて生きていることはそれでありがたい。けれども母親にな れてさらに人生が豊かになったと思える。だから子どもたちに感謝であ る。母親にさせてくれて本当にありがとうである。無条件の愛というものがどういうも のかを教えてくれてありがとうである。
このところ、子ども達の間でなんらかのコンピューターに触れない日はな いのではないだろうか?外を歩けば、子ども達は下を向いてコンピューターゲームをしている。ティーネージャーや大人でもしょっちゅう携帯 電話でメッセージを書き込んでいる。もうからだの一部となっているように。
常に遠い誰かとつながっていないと不安なのだろうか?さらに学 校では競ってコンピューター導入を図った。けれどもそれを乳幼児、さらには小学校の段階で必要だろうか?今ではすべてのカリキュラムがコ ンピューターでこなせるほどにまでなっている。図画工作、音楽、家庭科、体育においてまでだ。
けれどもどこかで線引きをすべきではないだろうか。ちょっと行き過ぎで はないだろうか?子ども達の時代に何が必要なのだろうか?それは人生における基礎、生きるための基礎を十分たたきこむことではないだろう か?足し算にしても計算機。ではもし計算機がなかった場合はどのように計算するのだろうか?靴下にしても、機械を編む機械がなかったらど のように靴下を作るのだろうか?
コンピューターの前で過ごす時間も半端ではない。今まではテレビが問題視されていた。けれども今はコン ピューターだ。子ども達はもっとこの段階でからだづくりに専念すべきだ。もっともっと走り回ったり、追っかけっこをしたり、からだを動か すことが楽しいということを学ぶべき時期なのだ。その間に自然と強い太い骨が作られ、さらには将来必要な健康維持について学ぶだろう。さ らに携帯電話の画面にしろipad の画面にしろ、とても小さい。あんな小さいものを読む には相当、目をこらさないと読めやしない。これは決して目によくないのだ。とにかく、赤ちゃんの段階からコンピューターの前にすわらせな いのであれば、小学生、いや中学生もだ、時間制限をしないとたいへんなことになる。
20歳まではとにかく精神と体の基礎作りである。人間関係 の基礎づくりである。コンピューターは1対1になりがちで、孤立しやすい。そのためにももっと外に出て人と交わり、人間らしい生活の基礎を子ども達に与えようでは ないだろうか?
人はなぜ引きこもるのでしょう?まず、皆さんでしたらどういうときに、もうどこにも行きたくない、誰にも会いたくないと思うでしょう?なにか恥を かいたとき、いやなことが起きたとき、自分の中でどう処理していいかわからない感情が生じたとき、自分がきらいなとき、そんなときではないでしょ うか?大人も子どもも引きこもります。子どもだけの現象ではありません。誰だって自分の殻に閉じこもりたくなるときがあるものです。それでは、ど ういう場合に深刻化するのでしょうか?いろいろな説がありますが、私が思うには、自分を表現できなかったときではないかと思うのです。怒りにして も、悲しみにしても、世の中の矛盾にしても、そういった感情を上手に出してこれなかった、我慢して出さなかったことが重なって、もうだめ!となる のではないでしょうか?
そのためにも子どもと生活している時期において、子どもが子どもらしく、自分でいられるように、その子をその子として受け とめてあげることが大切なのではないでしょうか?こうあるべき、強くなければだめだと本人らしくない生き方を親が押し付けると、子どもはそれにど うしてもなれなくて、それへの反発、怒りをうちに向けるなどして対応してしまうのだと思うのです。すべてケースバイケースにしろ、どこか共通点が あるように思うのです。
人生には さまざまなチャレンジがある。特に子どもが苦しんでいるとき、母親
は自分が変わってあげたいと思うものだ。それほど親は子どもを愛して いるか
らゆえにその痛みを取り除いてあげたいと願うのだ。
しかし、成長痛のように
どうしても本人が自分の力でその痛みを通り、克服しなくてはい けないことも
ある。それはなかなか受け入れがたいものだが、そういうとき、親は単に子ども
を信じ、外野席から応援するしかない。ちょうど歩き始め た子どものように。
その子どもが自分の足で立って、一歩、二歩と歩いたところで転ぶかもしれな
い。けれども転んでまた立ち上がることで歩くために 必要な筋肉がついていく
のだ。だから子どもが転んだら痛くてかわいそうと思っていつまでも親が補助を
していては子どもは一人で歩くことを決して覚 えないであろう。それと同じで
子どもは一人で痛みを通らなくてはいけないときがある。
しかし、そのそばには
親がいる。ちゃんと見守ってくれる親が いる。それが安心につながり、子ども
は転んでももう一度立ち上がる勇気を持つものだ。痛みのない人生などあるわけ
がない。そのためにも子どもには ある程度の成長痛を体験させて上げなくては
いけないのかもしれない。いつまでも過保護でいたら、子どもは社会に出たとき
にそれに耐えるだけの力が 備わらないからだ。
子どもが生まれる。ミルク、おむつと大忙し。その頃は早く自分で食べられるようにならないだろうか、早くおむつがとれないだろうかと母親は子どもの成長を急ぐ。目が離せない頃はパソコンに座る時間もない、仕事に戻りたいと早く子どもが大きくならないかと母親同士で会話する。そして幼稚園の送り迎え、早くこの送り迎えから開放されたいと母親は嘆く。高校生の時期のお弁当作り。いつこのお弁当作りから開放されるのだろうかと毎朝のように思っている。心配ばかりかけるティーネージャーの頃、親は早く子どもが家を出ることに思い巡らす。
いったいなんのために子どもをもうけたのだろうか?本当にそんなに早く子どもから解放されたいのだろうか?もっと子ども達の成長を楽しむべきではないだろうか?もっとゆっくり子ども達を成長させてあげてもいいのではないだろうか?それでは本当に子どもらしく成長するってどういうことだろうか?
それは子どもでいさせてあげることではないだろうか。子どもらしく、その子らしく時間を過ごさせてあげることではないだろうか。つまり、親があっちの塾、こっちのおけいこごと1週間をスケジュールで埋めるのではなく、ある程度子どもが自由にぼけーっとできる時間を設けてあげることではないだろうか。
なぜこれほどまでに子ども達をスケジュールにしばっているのか?それは大人自身が綿密なスケジュールをこなす生活をしているから、それが子どもにも正しいことだと思い込んでいるのではないだろうか?fast pace
な都会の生活に疑問を抱いた家族は田舎に引っ越している。日本の教育制度に疑問を抱いたある家族はサモアに移住した。きっと子どもにとって何が大切かがわかったのだろう。
子どもは自分の時間の中で自分らしさを発見する。自分はどんなことをしているのが楽しいかをその時間で発見する。何もしていない時間も大切な時間だ。何もしていない時、その子は考えているからだ。夢を見ているからだ。将来に対する夢を。目に見えていることがすべてなにかしていることではないのだ。
だから大人になって、「私の青春を返して」とか「私の子ども時代を返して」とか言うのだ。さらに怖いのは、子どもらしく成長する時間を与えられなかった大人たちは年齢的には大人であるかもしれないが、精神的にはまだまだ未熟であることだ。そういう大人がすごく日本には多いように思う。
子ども時代に何をしたいかを十分考えることがなかったがゆえ、ただスケジュールをこなす毎日であったがため、大人になって何をしたいかがわからないのだ。子ども時代には多くの夢を見る時間が与えられるべきなのだ。宇宙飛行士になりたい、大統領になりたい、大工になりたい、設計士になりたい、とこのように将来を思い巡らす時期なのだ。それをしてこなかった大人たちにいったいなんの希望があるだろうか。生きることへの希望すら失っているおとなたちがいることは本当に悲しいことだ。
子どもがいる家庭ではつねになにかが散らかっていて、一日として整然とものが片付いている日がないといってもよいでしょう。出したものは出しっぱなし、遊んだものは遊びっぱなし、食器は片付けない、冷蔵庫は子どもの手あかでべたべた、おもちゃはそこら中に、ソファの下、靴の中。靴はぬぎっぱなし、服は床に置きっぱなし。起きている間はしゃべりっぱなし、兄弟けんかはしょっちゅう。いつになったら平和がくるの?!と思うくらい。もう子どもなんていや!と思う日もあるかもしれません。
では皆さんのお宅がいつもきれいであること、整理整頓とされ、モデルハウスのように整然とされていることを望みますか?もし、1日だけでもぴかぴかなきれいな家が与えられたとします。そうしたら、皆さんは本当に幸せになれますか?さあ、どうでしょう?けれどもそこには子ども達はいないでしょう。
あなたが子どもをほしいと思っていたあの時を思い出してください。そう、子どもが生まれたら、といろいろな夢があったのではないでしょうか?これが子どものいる家庭、そんなものもえがいていたのでは?けれどもそれに伴う現実は?もうおわかりのとおりです。だから皆さんは子どものいる現実を選んだのでもあります。子どもがいるということは、一日として片付くことがないということ。いつも片づけをしている状態が子どもとの生活。子どもは汚すのが当たり前。なにか問題があるのが当たり前。だって、それが子どもが子どもでいることなのだからです。彼らはまだ子どもだからです。そしてそれは皆さんが以前から描いていた夢そのものなのです。
だから子どもがどんなに散らかし、どんなに家を汚しても、どんなにうるさくても、にこっと微笑んで、ああ、これは今日も子ども達が元気でいる証拠。健康な証拠。人生を楽しんでる証拠。だからこれでいいんだ。子どもがいる暮らしって汚されること、壊されること、悩むこともいっしょにあってこそなんだ。そういった視点で家の状況を見てみてはどうでしょうか?そしてなによりも、これもすべて過去となる日がいつか来て、その日を思い返したときに、ああ、あんな時もあったんだな~、なつかしいな~と思うでしょう。そして、あの時があったからこそ子ども達が今、幸せでいるんだと思えるでしょう。皆さん、是非、子ども達に子どもらしく過ごせる時間を与えてください。子ども達が独立してからはうんとうんと子ども達がいない長~い生活が待っているのですから。今をうんと楽しんでください。
子どもを育てているとどうしても大声で怒鳴ったり、しかったり、ヒステリックに声あげてしまいます。どうしたら声を上げずに子どもを育てられるのだろうか。それは誰もが一度は思い悩むことではないでしょうか。「もういい加減にしてよ!」、「何度同じことを言わせるの!」、「さっき言ったでしょ!まだわからないの!」、
「またやったのね。何度やったら気が済むの?」、「ねえ、また怒られたいの?」、「どうしてこんなにママを怒らせるの?」、「今、やったことがどういうことかわかってるの!」とこのようなことばに身に覚えがあるのではないでしょうか。しかし4人の男の子を育てていたり、年子の子どもを3人もかかえていて、やさしい小さな声で子どもを育てられるのでしょうか?
「ああ、また怒鳴ってしまった」、「もう怒鳴りたくないのに、やめられない。」、「今日こそ、今日だけでも声を上げない」と何度自分に言い聞かせたことでしょうか?怒鳴った後はいつも自己嫌悪、そして言われた側の子ども達も決していい気持ちはしていないはず。「ああ、またやってしまった。」。「もう絶対に声を上げないと誓ったのに」、「どうして自分はこうもだめなの?」。それではどうしてそんなに怒鳴ることをやめることがむずかしいのでしょうか?
そのひとつに習慣というものがあると思います。自分の母親がいつも自分に対してそう育てた。自分は怒鳴られて育った。自分の母親はいつもヒステリックに怒鳴っていた。そしておそらく自分の母親の母親も同じように育てたのかもしれません。つまりそれが普通と思っているとその習慣をくずすことはとてもむずかしいと言えます。けれども希望はあります。習慣を変えることは可能です。まずはその習慣を絶つという決心から始まります。その決心が一番重要なのです。もうしないときっぱり決断することです。しかし決断するだけでは十分でなく、それならどうしたらよいかという新しい習慣をそこに置き換えることです。怒鳴らない代わりにならどうしたらいいのかです。最初はむずかしくても、今度新しい習慣が身に付けばもう古い習慣は消えるはずです。それは新しい習慣がその古い習慣を置き換えたからです。
子どもが中学生になり、高校生になると子育てはますますむずかしくなる。小さい頃はおなかさえ満たしていればよかった。しかし思春期を迎えるとそればかりでは足らなくなるからたいへんだ。なぜこの時代、こんなに子育てがむずかしくなっているのだろうか。もう手に負えないとお手上げという声をよく耳にする。いったい昔の子育てとどう変わっているのだろうか?
いやいや、大いに変わっている。それもそのはず。一番の大きな変化は親という存在を子ども達は恐れなくなったからだ。皆さんは自分の親を思い出してほしい。ほらほら、こんなことばがあったではないか。怖いもののベスト4。そう地震、雷、火事、親父。とこのように昔、父親というのはものすごく怖い存在であった。しかし今は子どものご機嫌をとる父親、友達のような父親が増えている。それもそのはず、今や子
育ては夫婦二人の参加が当たり前だからだ。父親がうんと身近な存在になった。たまに帰ってきて怒るとどなったり、平手打ちをするような父親はもういなくなった。となると子ども達は怖い親という存在がない。親をばかにしたり、ひどい口答えもするようになった。それは単にもう親を怖いと思ってないからだ。私達は怖い存在と思わなくなるとばかにしたり、口答えをするものだ。つまり同じレベルに考えるからだ。そして怖いと思う存在の人に対して我々は尊敬の意を称すのだ。だから今の子ども達は親を尊敬しないというのは親を怖い存在と受け止めてないからなのだ。
けれどもうれしいニュースがある。確かに子ども達は家ではもうどうしようもないという振る舞いをしていながら、外ではどうだろう?うん、案外彼らはまともなのだ。近所のおばさんとはすばらしいほどの敬語、丁寧語で会話をしている。あいさつもちゃんとできている。決して恥ずかしくない立ち居振る舞いであるのではないか。驚いてしまうだろう。つまり彼らはちゃんと外で生きるすべを学んでいて実行できているのだ。ただ家では問題だらけの行動を起こす。
それはなぜか?彼らは外で一生懸命大人ぶっている分、家に帰ってうんと甘えるのだ。甘えることによって生気を養っているといってもいいほどだ。だから急に赤ちゃんのような存在に彼らは戻るのだ。わがままを言ってみたり、考えられないようなことを言って親を困らせたり。つまりまだまだ成長していない部分を持ち備えていて、それを家庭では経験しているのだ。つまりそれだけ外の世界で求められる大人の部分が、期待される部分が大きくなったといえるのかもしれない。その分、家に帰ってしっかり赤ちゃんをやらないと外の世界でついていけなくなるともいえるのではなかろうか。
さて、ならどうしたらいいのか?口答え、親を尊敬しない。まず言わなくてはいけないことはきちんと伝えるべきだ。そして相手はぐちゅぐちゅまた言ってくるだろう。しかし親はそれに惑わされてはいけない。断固、自分の方針や家のルールに関しては妥当である限り曲げないことだ。そして相手がチャレンジして来てもその点においてはこちらも対応しないこと。ここでストップ。会話はおしまい。少なくとも彼らの耳にこちらの意向は入ったはずだからだ。あとは彼らがどう対応しようと彼らが決めることだ。
そしてたいていはきちんと自分の中で考えをまとめられる力を持っているはずだ。だからそれを信じることだ。そう思うとかなり肩の荷が下り、いらいらがなくなるのではないだろうか。なんとか自分がしっかりしなくちゃこの子はたいへんなことになるなど責任を取らなくてもいい。不思議なことになんとかなるものだ。けっこうまともな大人に成長するものだ。
ケア・ワールドは海外で就学前のお子さんを持たれるご家族を対象ですが、今日は、思春期のお子さんをもたれるご両親のためにお話をします。私も今現在、思春期の娘(16)を育てている真っ最中です。彼女はありとあらゆるチャレンジを私に与えてくれました。はらはらどきどきの連続のここ数年間です。しかし最近になって少しづつ彼女の大人への成長が見られるようになりました。
おそらく今、思春期真っ只中のお子さんを育ててらっしゃる皆さんは毎日が悩みの連続かもしれません。あるいはいい時もあれば最悪と思われる時もあるでしょう。思春期の子どもたちは小さな大人ではありません。彼らは大きな子どもなのです。まだまだいろいろなことがわかっていない、子どもです。しかし、本人はりっぱな理屈もいえますし、かなり自分は大人だと思い込んでいます。そこが思春期の子ども自身にある葛藤なのです。
たとえば、「私は高校卒業したら、すぐ結婚して子どもを産んで、ヤンママになるの。大学なんて行かない。仕事する。子どもには苦労をさせて人生のたいへんさを教えるの。」と言ったとします。親としては、大学へ行く費用も貯金していて、通える身なのになぜ?仕事に就くといってもそんなに簡単に経験も学歴もなくていい仕事につけるわけがない。けれども子供たちは本当にそう考えてないかもしれません。単に私達を試しているのかもしれません。つまり親がどれほど成長しているかを見てるのです。子育ては自分育てというのはそこなのです。私達は試されてるのです。だからここで一応、高校を卒業してすぐ子どもを持つ厳しさを話してもよいでしょう。しかしそこで子どもが本当にそうすると思って動揺しないことです。そこがポイントなのです。堂々と彼らが正しい選択をすることを信じることです。それは皆さんが今までどのようなことをどのように子どもと接してきたかにかかってきます。
子どもが生まれてからの5年間は母子の絆を定着するのにとても大切だといいます。しかし、それと同じくらい私は子どもが巣立つまでの最後の5年間はとても大切だと強調したいと思います。つまり子どもたちはこの最後の5年間でもう一度最初の5年間を通るのです。つまり欠けていることがあったら、それを補う最後のチャンスなのです。そしてもし忘れていたら、母親との絆をもう一度確認する最後のチャンスでもあるのです。しかしそこを素直に幼児のようには甘えられないためその葛藤からさまざまな行動に出るわけです。そこで私達がしっかりそこを理解し、ああ、今、あの時期をもう一度通っているのだなと理解してあげないと単に無理なことを要求したり、突き放してしまうのです。
そのためこう思ってみてはどうでしょうか?私はこう考えています。今の時期は子ども達が生まれ変わる最後の通過点と見ています。そこにはちょうどちょうがさなぎから出ようとするときのもがきがあり、苦しみがあり、長い時間があるわけです。そう、お産にたとえてみてください。ちょうど今、お母さん自身は陣痛を通っているのだと。子どもも苦しんでいて、母親も苦しんでいる。けれどもその苦しみを通るからこそそこに新たな誕生があるわけです。
もう少しの辛抱です。この陣痛が一生続くわけではありません。この陣痛は必ず通過する。そう自分に言い聞かせれば少しは楽になると思います。そして何よりも子ども達がその産道を通過したときにすばらしい大人となって巣立つことを希望として想像してください。私は娘が高校を卒業することを夢にいだきました。卒業式を常に頭に描いています。
今のさまざまな問題も通過点と捉え、驚かないことです。もうどうしよう、どうしようと、パニックにならず、子どもに対して怒鳴らないことです。堂々と落ち着いていることが何よりも子どもが求めている親の姿なのです。ここで動揺したら、子どもはますます不安になってしまうのです。本来なら見習いたいべき存在がそのようにパニックを起こしていたらなおさら、何を信じ、誰を信じたらいいかわからなくなり、さらに子どもは信じたいと思う存在を求めて、ますます悪い行動へと向かっていきます。そしてこれでもか、これでもかと私達をチャレンジするでしょう。それは私達にもっとしっかりしてとエールをかけていることでもあります。子どもが聞きたいのはノーというひとことでもあるかもしれません。また正しい生き方を親から示してほしいのです。そのためには皆さんがお手本とならなくてはなりません。皆さんが自分自身の生き方に対して自信をもっていなかったり、不安だったりすると子ども達はもっと不安になり、自分の将来のあり方に希望が持てなくなるのです。子どもたちが自分の将来に希望を持てるためにも、皆さんの自分自身の生き方をたまには振り返ってみ
るとよいかもしれません。
このところ日本の添い寝が海外でも見直されているが、たたみにふとんを敷いて寝る日本の文化とベッドの上でねるほとんどの国の文化とではかなり状況が違うと思う。それに加えて、子どもを中心とする日本の文化と、夫婦が家族の中心ととらえる海外の多くの国ではこれまた添い寝に対する考え方が変わってくると思う。
相談の中で、子どもが寝てくれない、夜中起きて困るという問い合わせがものすごくあります。これはもう20年前と変わっていません。なぜこれほどに日本人の親は子どもが寝ないこと、子どもが夜中何度も起きることに悩むのでしょうか?
この問題を話題としてあげるのに実は、本が書けてしまうほどなので、今日の一言では言い尽くせませんが、ひとことでいうと、(病気でないと言う前提は言うまでもありませんが)子どもが親に振り回されているという現状です。子どもはいくらでも親を試そうとしています。それが彼らの役目なのです。それをノーというのがまた親の役目でもあるのです。しかし、そこで子どもがかわいそうだからとか、情緒不安定になるからとギブインを続けていたら、子どもは、ああ、この人はぼくの命令に従ってくれるなと悟り、さらに要望をエスカレートするのです。添い寝をいつまで続けるかはだいたい子どもの様子を見て親が判断すればいいと思います。
さて、添い寝ですが、アメリカでは今や子どものベビーベッドを親のベッドルームに入れている人もいます。これは添い寝とはいわないと思いますが。Co-sleepというそうです。しかし、これを彼らが長いこと続けることは疑問です。まず彼らは夫婦としての生活を優先するでしょうから、子どもの目の前で夜の生活はちょっとためらうでしょう。そんなことをしたら、幼児虐待で通報されてしまうでしょう。さらに、ベッドの生活ですからキングサイズにしろ、やっぱりひとつのマットレスの上ですから、
狭いですし、落ち着きません。子どもを真ん中に入れてしまったら、それこそ夫婦の距離ができて、これは結婚生活に支障をきたします。結局、添い寝といっても親のベッドルームに子どもを一時的に置くという程度で、やがて夜通して寝るようになって、子どもも自分の部屋で寝ることに納得し、おっぱいが終わった頃にはちゃんと子ども部屋に戻している家庭がほとんどです。
それに対して日本人の添い寝は、親の間に子どもを入れるパターンが多く(いわゆる川の字)、しかもベッドでしたら、とても端には置けないので、真ん中となると、子どもはちょっとした親の寝返りで起きてしまいます。そもそも添い寝の目的は、目を覚ましたときに親がいることで安心ということなのですが、今や夜の生活が長い現代人にとって、子どもが浅い眠りから目を覚ましたときに親がその隣りで寝ているということはまれでしょう。となると、どうしてもギャーと泣いて起きてしまい、またなだめるのに一苦労。ましてやベビーベッドに入れてなければ、勝手にはいはいでもしてベッドから落ちてしまい危険です。さらに子どもが歩けるときまで添い寝をさせていると、起きたら自分勝手に歩き回ってしまうでしょう。これではたまったものじゃありません。ある程度の年齢に達したら子どもは子ども部屋に移すしかないのではないでしょうか?それとも50年前の暮らしに戻りますか?ということは、親も子どもと同じ時間に寝るなり、ベッドからふとんの生活に戻ることになります。添い寝だけとりあげて、それを現代のモダンな生活スタイルに当てはめてもぎくしゃくしてうまくいかないだけだと思うのです。添い寝と現代の生活スタイルをどのようにうまくかみ合わせるかがこれからの課題でしょう。