男らしく、女らしくといいたくなったら 

| コメント(0) | トラックバック(0)

もしかしたら私達は親から「もうちょっと女の子らしくしなさい。」とか「男の子なんだからすぐ泣かないの!」とか言われて育ったのではないでしょうか。いまでも無意識の内に言ってしまったり、言った後に、ああ、言っちゃった。と気が付く事があるのではないでしょうか。しかしこの男の子らしくとか女の子らしくというのは実際どのような実態があるのでしょうか?

私は思春期に入るまではあえて女の子だからとか男の子だからといって育てなくてもよいかと思います。つまりもっと大切なのは人間としてどうあるべきかを幼少の頃に植え付けておいた方がよいと思うからです。女の子らしさ、男の子らしさと言うものは思春期が近づいたあたりから自然と子ども達が意識する事であり、文化によってそれぞれ自分たちで発掘し、自分たちなりに受け入れて行けばよいと思うのです。

世の中を見ればただでさえ男の子らしく、女の子らしくははびこっています。まず、生まれた直後に、「男の子ですよ!」「女の子ですよ!」と誰もがそれに興味を持ちます。しかし先進国によってはそれを最初のことばとして親に伝えていない所もあります。つまり親があそこを見ればすぐわかるのでそれをあえて口に出して強調しないのです。つまりそれほど重要ではない、もっと重要な事がある。それは無事生まれたと言うことでしょう。

次に男の子はブルー、女の子はピンクとなります。もらうカードもその色だったり、洋服もその色だったり、もうそのあたりでいやおなくジェンダーが植えつけられます。だからもうそれで十分ではないでしょうか。その上に私達親が、女の子なんだから、男の子なんだからと育てるのはあまりにも押し付けがましいように思えるのです。

色にしても、「けんちゃんは本当はなに色が好きなの?」と聞いてあげれば、「けんちゃんはピンクがいい。けどピンクだとみんなに笑われる。女の子みたいだって。」けれども色は好みです。その色がジェンダーを決めるべきじゃないと思うのです。だから私はあえて好きなものを好きと言い、それを選ぶ事によって心豊かに喜べるこどもに育てたいと思うのです。

そのような信念で育ててきた11才の我が娘に、先日、「ねえ、ありちゃん、ありちゃんにとって男らしさってな~に?」と聞きました。彼女の答えは以外でした。「好きな人を守って上げられる人」と答えたのです。まさにこの子は自分なりに男らしさと言うものを発見していたのだと思いました。おそらく娘は生物的な男女の違いを理解し、その上で男は女を守るべきと考えたのでしょう。

 

男の子でも涙を流せる子どもに

男の子が産まれたときに、「ああ、この子は男の子らしくたくましく、強く、育てなくてはいけない。」とそんなプレッシャーをだれもがどこかで感じたのではないでしょうか。特に男に対する男としての理想像と言うものは女の子以上に求められるものだと思います。日本は特にそれが強いように思えます。それは男は世に出て社会にもまれ、その荒波に耐えながら家族を養って行かなくてはいけないという責任があると世の中では考えているからです。

しかし私はあえて男の子は強くなくてはいけないというプレッシャーを少しはとりのぞいて育てられたらと思うのです。確かに肉体的な男女の違いから男は女よりも力はあります。それは肉体的な当然な違いです。そもそも「らしさ」なんていい加減な定義なのです。涙も流さない、弱音も吐かない、悩み事も相談しない、そんなに我慢する事はないと思います。

あまり我慢していては病気になるでしょうし、人間そこまで強くはなれません。そのようなぽろっとした自分の弱みをさらけ出せる人がいない、つらいときに甘える人がいない、悩みも全部自分でしょうしかない、そのような状況では早死にします。だからと断言するわけではありませんが、独身の人が結婚している人と比べて寿命が短いと一般的に言いますが、それが証拠ではないでしょうか。

私の好みですが、私がもっとも人間的に惹かれる相手は、悲しい時に自然と涙を流し、プレッシャーに耐えられなくなったとき、恐いと言えるそんな人間身にあふれた人です。確かに世間に出たときは自分の弱みは隠し、しっかりした自分を保っているでしょうが、愛する相手に、心許せる友にそれができる人が私はもっとも精神的にも健康な人だと思っています。

だから私はあえていいたいのです。「涙も流せないんじゃ、人間じゃない。」「悲しい時には男であれ、女であれ思いっきり泣けばいい。」「つらいときはつらいって言えばいい」「うれしいときは飛びあがって喜べばいい。」人間として感じるべき感情を「男だから」というひとことで押さえつけてしまったり、自然と心のなかに湧き上がる感情を理性で殺してしまってはせっかく人間としてうまれてきているのなんともったいないことでしょう。人間として生まれたのであれば、人間としてフルにおおいに生きればいいのです。そのためにも「男は泣かない」という育て方はもうやめたほうがいいのではないでしょうか。

男は常に強くなくてはいけないなんて、この社会が攻撃的になり、守りを張らなくては生きていけない競争社会になっているからかもしれません。しかしそれは人間として生きることを否定されているほどに聞こえます。人間は弱さも強さもそなえています。強さだけを強調して弱さを隠したり否定したりしてよいのでしょうか。弱さとはそんなにも隠すべきものなのでしょうか。恥かしいものなのでしょうか。いいえ、私はそうは思いません。自分の弱さとはそう簡単に誰にでも言えるものではありません。だからこそ弱さを出せることはある意味で勇気ある強い人だとも思うのです。

こんな事を言ったら日本はやわな男がますます増えるという批判的の声も聞こえてきますが、そうでしょうか?確かに今の男性はやさしいといいます。しかし強さの中にやさしさをもった人こそ生き延びると思います。強さと弱さとのバランスがきちんととれた人間を育てるのが私達の役目ではないでしょうか。やわにみえる今の若い男の子達は昔からの「男は泣かない!」というよろいを取り除いかれ楽になったのだと思います。だからといってやわになったわけではないと思います。時代が変わりやさしさの表現の仕方は確かに変わりました。

しかし人間らしく育った男の子は思春期になれば男らしさや強さを自然と身につけていくと思います。本当の男らしさとは人間的な感情を表現し、愛する人に伝え、愛しているからこそその人を大切にする人ではないでしょうか。常にそのような陰と陽のバランスがとれている人間であれば、いざとなったときに本当の強さも発揮されるのではないでしょうか。いまでは女性も強くなっています。いや、母親などは一番強いのではないでしょうか

。なにも男ばかりが守りの立場、攻撃の立場に立たなくてもいいのです。夫婦のよいところはお互いにもっている力をそれぞれの形で発揮しながら家庭を守る、こどもを守ることができることだと私は思います。男だから、女だからなんてもうこだわらなくてもいいように思うのです。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.sweetnet.com/mt/mt-tb.cgi/401

コメントする

nora.jpg (6312 バイト)

最近のブログ記事

 nora2.jpg (7714 バイト)

 nora.jpg (7548 バイト)