こどもを見守る姿勢、待つ大切さ

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 私はこどもが生まれてからつねづね、「子育ては見守ることよ」といわれてきました。しかしまだこどもが小さい時にはその意味の持つ重要性が分かりませんでした。こどもを見守るってどういうこと?こんなに何もできない子供をどうしてほっておけるの?そうです。つまり私が理解していた見守るということはただほっておいて外から見ているだけの受身的な姿勢を写し出していたのです。

しかしこどもが歩き始めの頃に転んだとき、そこで自分が手を出しておきあがらせてはいけないということをまずわかりました。これが私がはじめて知った見守るという姿勢でした。ことばがでない、まだ歩けない、おむつがまだとれない、そんな頃、心の無い人達は「あら、まだなの?うちはもうできてるわよ。」と他人の子を平気で批判します。しかしそんな心落ち着かない中でも自分はこの子の自分なりの成長を見守るという姿勢を要求されました。この子にはこの子の成長のスピードがある。早いからいいのか?遅いから悪いのか?そうではないはず。この子がいつかできるのであれば、その日をじっとその子のスピードに合わせて待ってあげる。これが見守ると言うことだと気づいたのです。

「どうして?なぜ?」と繰り返し尋ねる頃、すぐ答えを出すのでなく、「けんちゃんはどうしてだと思う?」と考えさせ、自分の力で回答を探す力をつけさせる。考えている間はじっと待ってあげる。そして答えが出たときはほめてあげる。これこそが見守るという姿勢そのものだったと思います。

その後こどもが学校から帰ってきてランドセルを玄関に放り投げる、脱いだ靴下を片付けない、これにおいても私は本人が片付けるのを待つことにしました。しかしかなりの忍耐力を必要とします。ここで私が片付けたらこの子は一生だれかが片付けてくれるだろうという誰かに依存した生き方をしてしまいます。だから私は心を鬼にして断固片付けませんでした。待つ。彼女が自主的に行動を起こすまで見守る姿勢です。そして息子。彼は自分の進路について悩んでいました。私達親が出きることはいっしょに考えること、そして最終的には彼が自分で道を選んで行くというその過程を見守ることなのです。彼のために進路を私達が決めることはできないのです。

このようにこどもが育って行く中で常に見守る姿勢を要求されてきました。しかしただ見ているだけでなく、彼らが本当に助けを求めてきた時には手を差し伸べる、失敗したときは励ましてあげる。そのためにも状況を把握しておく、すぐ手を差し伸べられるように親自身がオープンな構えでいること。これが見守るということなのかと私は知りました。

結局こどもは勝手に「育つ」のです。生まれもった潜在的な力があって、こどもはなんとか自分で生きていく力を持っていて育つのです。私達親は、何もできないこどもと思って、つい先走ってしまったり、こどもを生んだ責任上、きちんと立派に育てなくては行けないというプレッシャーを感じている人もいるでしょう。しかしこどもは私達が「育てる」のではなく、自然と「育つ」のであるのなら、その過程の中で見守るという役目に徹することが一番大切なのではないでしょうか。道を反れそうになった時に、軌道修整の為の声かけをしてあげる、失敗をしてしまった時に、もう1回がんばればいいと励ましてあげる。こんな声かけや手を添えてあげることが「見守る」ということなのではないでしょうか。結局私達は子ども達の人生を歩むことはできないのです。彼らはいずれ一人立ちしなくては行けないのです。そのためにはやはり見守るしかないのだと思います。

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