感じるこどもに育ってほしい

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子どもが見えない、何を考えているか分からない、そういう訴えを今の中学生の親はもっているといいます。何を聞いても、「わからない」「別に」「うるさい」なんと語句が減ったものだろうかと驚くくらいだといいます。さらに会話が無いといいます。会話が無い?そんなばかな、こんな多感な時期にいる子どもが何も感じないはずも無いし、それを伝えたい気持ちで一杯であるはずなのにいったいどう言う現象でしょうか。

子ども達をシャットアウトしてしまったのはむしろ親に原因があるのではないでしょうか。話したくない親になっているのではないでしょうか。どうせ思春期はこんなものよとあきらめていないでしょうか。私はこの多感な時期を是非共有してもらいたいと思っています。彼らが何を感じ、何を考え、どう反応しているのか、どんな新しい発見をし、どんな新しい知識を得たのか知りたいし、それを聞くのが何よりも楽しみです。ひとつひとつの彼らの感動が私にとっては彼らの成長の証しであり、とても喜ばしいことなのです。 それなのにそれを経験できていない親達はどうしてしまったのでしょう。いままで子ども達ときちんと会話をしてきたのでしょうか。

会話ってな~に?会話とはたわいない日常の会話です。しかし彼らはいつも親という権威をかざし、「教える」という立場でしかこどもと接してこなかったのではないでしょうか?親だから「教える」「命令する」「指導する」「監視する」「支配する」のは当然と彼らは思っていないでしょうか。親はそれだけに徹していたら決して子ども達のハートをつかむことはできないと私は思います。むしろ思春期の子供は「教えられる」「批判される」と感じたら即心を閉ざしてしまうでしょう。 自分が今何を考えているのかを彼らは伝えたいのです。けれどもそれをくだらない考えだとか、そんなことも知らなかったの?といわれてしまったら次のことばが出ないのは当然です。思春期の子供にお説教はもう通じないのです。思春期の子供が聞きたいことはいっしょに考えてくれる親なのです。こう感じたと言うことに対して、「そうなんだ」と同調してくれる親。そして親自身がどうその時期に思ったかなどを伝えられればどんなに彼らはもっと話したいという気持ちにかられることでしょう。

こどもが感じることは彼らの特権なのです。どう感じようがだれも批判できるものではないのです。花をみてうれしく感じた。死んだ猫を見て悲しくなった。ある人の生き方を見て感動した。これはどう感じたかなのです。感じることは自由なのです。だれもよいわるいをつけられないものなのです。だれも批判出きることではないのです。そして自分が自分として一番受け入れられるものなのです。だから受け入れられることがとてもうれしいのが人間ならば、子ども達はそれを求めているのです。受け入れられ、それが自信へとつながる。さらには自己確立へと結びつく。自分の存在感を認めてもらえる。こんなうれしいことはないのです。

だから私はこどもに「感じること」をたくさん経験していってほしいのです。感じるためには心の中をじっとみつめる余裕が必要です。そして考える脳も必要です。時間も必要です。親は待つことが必要です。 詰め込み式にただ知識を頭に入れる。考えることもさせないでただ暗記。先生はただ教える立場。生徒といっしょに考えたり、いっしょに悩んだりそんなことは塾の先生には求められていないのです。ただ覚えろと言うことばかりを強調する今の日本の教育体制に私は本当に疑問を感じざるを得ません。会話のできない親子、ましてや会話のできない夫婦がこれからの日本にはたくさん誕生してしまうのではないかというき危機感を感じます。

今月のエッセイはむしろまだ子どもが小さい皆さんへの警告だと受け取ってください。そう、会話のない親子にならないように、今から子ども達の心をしっかりとキャッチしておいてください。

追伸:  1年と3ヶ月全部で15の子育てエッセイを書きました。皆さんにどのような影響を与えたか分かりませんが、なにか子育てについて考える材料になっていたらなと思って書きました。このたび、節目を迎え、自分自身のこれからの生きる道をたてたいとおもい、ここで一応、子育てエッセイは終止符を打つことになりました。しかしまた皆さんとお会いする日が来ると思います。その時までお元気で。ごきげんよう。

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