自分からしたいと思うあいさつを(その1)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 私の友人で以前、マレーシア、今はグアムで5才の娘さんを育てているSさんがいます。Sさんは子ども達があいさつできないことに大変腹を立てていました。

「私がこのコンド(分譲集合住宅)でよく感じることは「あいさつ」です。あいさつを言える子が少ない。私はここでは一番厳しいかも。(母親の中で)自分の子供には泣かせるほど言い聞かせました。いまだに自分からは言えないときがありますが、私は子供だからって見過ごしていてはいけないと思っているんです。

エレベータで会っても玄関で会っても挨拶がありません。なぜなんでしょう?母親が側にいても言わせようとしません。あれって習慣でしょう?大人になっても言えない人っていっぱいいるじゃない?。

だから私はここではあらゆる子供に大きな声で声をかけるようにしています。毎日あうんだから「おはよう、こんにちわ、こんばんわ」くらい言えるべきですよね。私みたいに考えている人は還暦をすぎたおじいさんくらいですが。我が子は絶対大丈夫ってわけではないので偉そうなことはあまり言えませんけどね。Sさんは厳しすぎっていうのがここでの反応です。」

これに対して私は次のような意見を持っています。それはあいさつこそ親が示すことで習得することだということです。おそらく幼稚園の頃から、「大きな声であいさつをしましょう。」などとスローガンをかかげ、さらに小学校の1年生では必ずといって「あいさつができる元気な子」なんていう目標が掲げられます。それだけ今の子ども達はあいさつができていないのです。

しかしそれでは大人はどうでしょうか。ちょっと知っている人なら目が合えばおそらくちょっとした会話をしなくても会釈くらいします。けれどもたいていは面倒だから目をそらしてみたり、ましてや知らない人であれば決してあいさつなどはしない今日になっていませんか。同じマンションでエレベーターがいっしょになっても10代、20代の人達はほとんどあいさつなどしません。こどもができて初めてやっぱりお手本を示さねばと思い出したようにあいさつをしはじめたり。

たとえば毎日保育園に同じ時間にこどもを送って行くお母さん、毎朝公園に犬を散歩に連れてくるおじさん、そういう知らない人にも昔はあいさつをしていたのです。近所ということでちょっとした会釈をしたり、おはようございますを言っていたのです。しかし今は隣の人も何する人ぞと都会は化し、むしろ知らない人にあいさつをするなんてあの人、気味悪いはと思われるのが落ちです。家庭の中ではどうでしょうか。ご主人に「おはよう」くらい毎日言ってますか?お子さんにはどうでしょうか。もう夫は空気のような存在になっていませんか。お子さんにあいさつするなんて照れくさいとか、あいさつは外でだけするものとおのずとメッセージを伝えていませんか。

このように大人ですらあいさつをしなくなってきたのに、それをこどもに期待するのは間違っているのではないでしょうか。子ども達は大人から学び、大人をしっかりと見ているのです。あいさつをすべき相手かどうかと差別している皆さんをこどもたちは鋭い感覚で察しているのです。

人間は本能的にあいさつをする動物なのです。社会的な動物なのです。だからまだ話さない赤ちゃんでも目があえばにこっと笑いますね。10ヶ月の子どもはばいばいができますよね。1才の子どもは会った人すべてにあいさつをするほどです。あいさつとは本来、区別へだたりなく、人間であればするべきことなのです。

つまり会えばあいさつなのでした。1才半のフィリックスなどは犬や猫にもあいさつをするほどです。動くものすべて、生き物すべてに小さな子どもはあいさつをします。それがある程度ものごとの判断がつき始めると、つまり知恵がつき始めると親の様子を観察して、あいさつをしなくなるのだと思います。つまり子ども達はあいさつを親から学習しているのです。

人間は自然にあいさつをするように本能的にコンディションされた生物なのだと私は思います。朝など気持ちがいいときには、会う人すべてに、いや電線に止まっているはとにさえ「おはよう」と言いたくなる、そんな気持ちを抱いた経験は皆さん持っているはずです。あいさつとは、人とコミュニケーションをとることは気持ちのよいことなのです。特に朝のあいさつは実にさわやかで、相手の気持ちをなごまし、その日一日を明るくするほどのパワーを持っています。

人間は社会的な動物です。人の中で生きていく動物なのです。そしてそのような社会的集団の中でけんかをしないためにはコミュニケーションが必要なのです。私はあなたに対して決して敵意を持っていませんよと示す第一発言があいさつなのではないでしょうか。そのような理由からでしょうか、あるいはもっと余裕があるからでしょうか、あいさつにかけては多人種社会に育ったアメリカ人は上手だと思います。10代の子どもでも、知らない人にすら、「すてきなTシャツね」とコメントをしたり、料金所でも"Have a nice day!" (今日も一日よい日でありますように)と運転手を送るのです。彼らは朝の「おはよう」だけにとどまりません。何も時間帯に応じて言うあいさつが無いときでも、何か一言相手をほめたり、天気のことを言ったり。さらに相手に喜びを与えることにたけています。日本語で言ったらどうもまどろっこしいような、わざとらしいことでも、「あら、今日のネクタイすてきじゃない。」と彼らは実に自然に言いのけるのです。同じ発想を日本語に置き換えて言うことなどとても照れて言えないでしょう。しかしこれらもりっぱなあいさつです。

さらに都会で自分のことしか考えていない社会では、相手を思いやる心の余裕が無くなってきているのも一因だと思います。もし時間的にも余裕があれば、あいさつついでにちょっと立ち話位する時間があるはずです。しかしごみを出してその足でこどもを保育園に送って、ふとんにカバーをかけて、7:59分の急行に乗らなくてはと頭の中が時間に追われていたらいったいどこにあいさつをする余裕があるでしょうか。現代人は忙しくなりすぎて、時間的余裕を失ってしまったのです。そしてあいさつする時間すら惜しむようになったのです。

このように見てきますと、親がきちんと大きな声で、まあ少なくとも毎日会う知り合いの人達にあいさつする姿を見ていればこどもはおのずとそれを悟ると信じています。子どもは親の鏡なのです。元気なあいさつをする子どもはお母さんも元気です。しかしそのような元気なさわやかでにこやかなあいさつをする子どもが実に減ってきています。それはおそらくお母さん方に元気が無くなっている最たる証拠ではないでしょうか。お母さんが生き生きしていない、そのようなところにあいさつをしない子どもが増えている現象が一部位置付けられるのではないでしょうか。

まあ、今あいさつができなくても、もう少し気長に待ってみてはどうでしょうか。子ども達にとってあいさつというものが本当に気持ちのいい事だと言う事を悟ればおのずとそのさわやかさを感じたいという気持ちからあいさつができるようになるのではないでしょうか。あいさつとは人間が共存する社会でお互いに気持ちよく生きていくに当って、安心な社会を感じさせるためにするものなのだと教えてみてはどうでしょうか。ちょっとむずかしい言い方だったかもしれませんが、あいさつとは本来相手がどのような気持ちを自分に向けているかを判断する一つのバロメーターであるはずです。そして自分のことばに対して相手が反応すればこちらは安心を得ているはずです。

むずかしいことはさておいて、とにかくお子さんたち、そしてご主人と、つまりまずは家庭の中からあいさつの練習をしてその感性を身に付けて行ったらどうでしょうか。「こんにちは」、「おはよう」、「いってらっしゃい。」、「鈴木 あみです。」、「3才です。」、「いただきます」、「ごちそうさま」、「はい」、「ありがとう」、「ごめんね。」、「おかえりなさい」、「こんばんは」、口に出してみるとどうですか。気持ちいいでしょ?なんか心の中が温かくなりませんか。自然と口元に笑みが添えられたはずです。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.sweetnet.com/mt/mt-tb.cgi/404

コメントする

nora.jpg (6312 バイト)

最近のブログ記事

 nora2.jpg (7714 バイト)

 nora.jpg (7548 バイト)