2006年6月アーカイブ

散るぞ悲しき

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iou.jpg久々に深く感銘した本です。「散るぞ悲しき」梯 久美子著

左の写真、大抵一度は目にしたことがあると思います。この旗が立てられた島の名は硫黄島。アメリカ海兵隊員が島の占領を記念して星条旗を立てている有名な写真です。硫黄島は太平洋戦争末期、日本軍側の死傷者、2万1152名(内、戦死者2万129名、生存率5%)、米軍の死傷者数2万868名(内、戦死者6821名)を出した激戦地です。

数字を見てもわかるように日本の兵士は、死傷者と言っても全滅状態です。アメリカの戦死者も、日本に比べれば、はるかに少ないとは言え、第二次世界大戦で戦死した海兵隊員の内の3分の2が、この硫黄島での犠牲者でした。(アメリカ合衆国の海兵隊は上陸作戦・即応展開などを担当する精鋭部隊で、その主任務は陸海空軍が上陸する前に先陣を切って上陸を果たすことにあり、よって常に犠牲者が最も多く出ます。徴兵制度の取られたベトナム戦争の時でも、全員志願兵でした。)

たまたま私の夫と深い親交のあった大学時代の恩師ハンフリー教授という方が、硫黄島を生き残った方で(彼の十数名いた部隊で生き残ったのは二人だけだそうです)、我が家を訪れると、たまに硫黄島のことを話されていたので、硫黄島が日米の激戦地だったということは知っていましたが、今回、日本側の硫黄島総指揮官の戦いの最後の様子が書かれたこの本を読んで、改めて日本側の犠牲の大きさと、兵士達の生の苦しみ、死に行く悲しさを知り何度も涙が出ました。

硫黄島は東京とサイパンのほぼ真ん中に位置し日本にとっては本土防衛の最後の拠点であり、アメリカにとっては日本本土空襲のための発着地として最大の足がかりとなる場所でした。

日米両者の軍事力の差は、戦う前からあまりにも歴然としていました。日本兵2万余に対し、アメリカ兵6万余。想像をこえる物量の大差。日本側は戦争末期で召集された30代以上の妻子を残して出征した兵士達が多く、対するアメリカ側は歴戦の将校と士気旺盛な志願兵の若者達から成る先鋭の海兵隊。最初から万に一つも勝ち目のない戦いであった上に、日本の大本営からは米軍上陸直前に「敵手にゆだねるもやむなし」として見放され、援軍の希望も絶たれていました。

iou1.jpg島は半日もあれば徒歩で回れてしまう程の大きさで、所々で硫黄ガスが吹き出し、ハエ、アリ、アブラムシがウヨウヨと徘徊する不毛の地。川も湧き水もなく、水源は時より来るスコールを溜めた水のみ。そのような状況下、栗林は上層部の反対を押し切って隠れるところのほとんどない島に、くまなく地下壕を堀りトンネルを張り巡らせ日本軍には例のないゲリラ戦を展開し、アメリカに5日で落ちると言われていた島を36日間にも渡って守り抜いたのです。アメリカ軍に地獄のような苦戦を強い、米国ではBattle of IWO JIMAとして語り継がれ、米軍人の間でいまもGeneral Kuribayashiとして評価されている日本の総指揮官、陸軍中将、栗林忠道氏(享年52歳)。

筆者、梯(かけはし)久美子さんにペンを取らせたきっかけとなったのは、たまたま目にした栗林氏の訣別電報の中の辞世の句の中にあった「国のため、重きつとめを果たし得で、矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき」という一首。当時の帝国軍人、しかも大将が「悲しき」などという弱弱しい言葉を使うことは大変まれでした。現に、この辞世の句の「散るぞ悲しき」の部分は、大本営部によって「散るぞ口惜し」と改変され新聞に発表されました。栗林氏が敢えて「散るぞ悲しき」の一文に籠めた思い、伝えたかった真実とは、なんだったのか?

栗林氏は、地獄のような戦地から、大変まめに妻子に宛てて心細やかな手紙をしたためていました。自分は真っ暗で狭く暑い穴の中で連日に渡って行われる空襲から身を隠しながら、日本の妻のアカギレを気遣い、出征前に直すことのできなかった床の隙間風を心配し、短い間しか一緒にいてやれなかった末娘の将来を思いやる手紙を何通も書き送ります。

「たこちゃん元気ですか?お父さんが出発の時、お母さんと二人で御門に立って見送ってくれた姿が、はっきり見える気がします。・・・たこちゃん、お父さんはたこちゃんが早く大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。・・・」、

「たこちゃん!元気ですか?お父さんは元気です。ゆうべも寝てすぐと明け方との二回、空襲がありましたが、お父さんは面白い夢を見ました。それはたこちゃんがおふろから上がってめそめそ泣いていましたから、お父さんは「どうして泣くの?おふろがあつかったからかね?」と尋ねていると、お母さんが笑いながら出てきて、「きっと甘いものがほしいからでょう」と言うて・・・。それだけですが、お父さんはみんなの顔がはっきり見えたので、会ったも同じようでした。」

「夫として父として、御身達にこれから段々幸福を与え得るだろうと思った矢先この大戦争で、しかも日本として今最も大切な要点の守備を命ぜられたからには、任務上やむを得ないことです。・・・最後に子ども達に申しますが、よく母の言いつけを守り、父なき後、母を中心によく母を助け、相励まして元気に暮らして行くように。・・・たこちゃんは可愛がってあげる年月が短かった事が残念です。どうか体を丈夫にして大きくなってください。」そして追伸として「家の整理は大概つけて来たと思いますが、お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です。・・・」

栗林は若い頃、軍の視察にアメリカとカナダに2年間留学していました。そのため、日米の軍事力、資力の圧倒的な差を知っており、アメリカとの開戦には最後まで反対していました。(栗林がアメリカ通であったために、死地にやられたという見方もあるそうです。)しかし、手紙にも「任務上やむを得ない」とあるように、勝利も生きて帰る見込みさえもない死の島へ2万余の兵士の命を預かり送り込まれました。

iou2.jpg筆者は、そんな状況で栗林は一体、どんな目標のを持って飢えと乾きに耐えながら最後まで勇敢に戦い続けたのかに思いをはせます。当時、日本兵士は勝ち目のない戦いになると万歳三唱して敵に切り込む「バンザイ突撃」を行い潔く散ることが慣例のようになっていました。トンネルの中にガソリンを流し込まれ火炎放射器で焼き殺されるよりも、思い切って飛び出して潔く散ってしまった方が、きっと楽だったに違いありません。しかしながら、栗林はバンザイ突撃を強く禁じ、潔い死を選ぶ変わりに、死よりも苦しい生を生き、戦い抜くことを部下にも自分にも課します。目標や希望なくしては、とてもできなかった戦い方でした。

栗林は、家族に宛てた手紙の中で何度も以下のようなことを書いています。

「もし私のいる島が敵に取られたとしたら、日本内地は毎日毎夜のように空襲されるでしょう。」「東京大空襲の前提としては、父のいる島が敵に取られるということで、言い換えれば父が玉砕したということである。」・・・と。つまり栗林は、日本の家族への危害を一日でも一秒でも遅らせるために必死に島を死守しようとしたのではないか?

全米ベストセラーとなった「硫黄島の星条旗」の著者J.ブラッドリーは、栗林が、苦しいゲリラ戦を決意した背景には、栗林がアメリカ人気質を熟知していたからだと分析しています。ベトナム戦争においても、今のイラクとの戦争でもそうですが、アメリカ国民は、何よりも人的被害を重く見るので犠牲者が多くなるに従い、たとえ戦況が有利でも段々と厭戦気分が高まるとともに、政権者への批判も高まり、戦争を早く終結させようとします。栗林は、そのようなアメリカ世論を考慮し、勝ち目はなくとも、できるだけ相手に人的被害を与え、アメリカの世論が、日本との戦争を早く終わらせようと望むことを期待したのではないか。

iou4.jpgまた、筆者梯は、さらにこう付け加えます。栗林の、そのような目論見の背景には、できるだけ硫黄島でアメリカを引き止めることで、愛しい家族達の住む本土への空襲を遅らせ、日本が戦争終結を考慮する時間を稼ぎ、敵に甚大な損害を与えることで、日本が有利な形で終戦交渉の席につける、という心積もりがあったのではないか。2万余の兵士達全員が、同様の気持ちを共有していたからこそ矢弾尽きるとも命の一滴まで戦い抜けたのではないか。ただ、最大の悲劇は、栗林の最後の願いはむなしく、日本軍部の上層部は、その方針を変えることなく、本土は焦土と化したこと、確かにアメリカでの厭戦ムードは高まったけれども、アメリカは戦争を早期終結させるべく、栗林が想像だにつかなかった原爆の使用に踏み切ったこと。

戦後、遺骨収集団の方たちが見つけた戦没者のポケットの中には家族や子どもの写真や手紙を抱いていたものがたくさんあったそうです。そして今でも多くの兵士達の遺体が回収されることなく硫黄島の土の下に眠っているそうです。栗林の遺骨も共に戦った部下達とともに硫黄島の土となることを望んだ栗林が、最後の攻撃の際に軍服の身分証などを全てはずしていたために、発見されることがなかったそうです。
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http://www.sweetnet.com/bookj6.htm/

大陸の花嫁

--後世にあの悲惨な戦争を語り継ぎ平和を願う81歳の女性--


以前SweetHeartのメルマガで連載許可を頂き大きな反響のあった「生かされて生き万緑の中に老ゆ」(NHK学園三十周年記念自分史文学賞大賞受賞作品)を、再編集して自費出版を続けておられましたが、ついに岩波現代文庫から出版されました。

井筒さんのHP(http://www.balloon.ne.jp/453room/)に出会ったのは、たまたま第二次世界大戦のことをネットで調べていた時でした。ネット上にはそう多くはありませんが、実際に戦争を体験した方々(もちろん、もうかなりの御高齢の方々です)が、手記を発表なさっており驚きました。南方戦線での惨状、シベリア厳寒での抑留生活の生々しい様子が書かれた手記の数々。その中でも、とりわけ、心を揺さぶられたのが井筒紀久枝さんという80歳の女性の手記でした。

数年前にNHKでもテレビ放映された、山崎豊子さんの「大地の子」でも、当時の開拓団の様子は、詳しく描かれていましたが、井筒さんの手記は実際に、そこにいらっしゃった方のものとして、また、幼い娘を抱えて必死に生き延びようと、故郷日本を目指して異国の地をさまよわれた母親の立場から書かれているため、ことさら共感を覚えます。最後のページを読み終わり本を閉じながら、平和の大切さを心から願いました。

一部引用

「満州国崩壊」より
・・・・敵国の真っただ中で祖国の敗戦を知った私たちの間で、いろいろな意見が飛び交い、自決組と自決反対組に分かれた。国民学校校長の坂根先生は自決組の先頭者で、教え子や義勇隊の女たちはそれに賛同した。生きて敵に辱めを受けるより、敵に殺されるより、自分の意思で命を絶とうと思ったからである。

 八月二十日、その日は清美の満一歳の誕生日だった。その短い命を詫びながら、その子にも白鉢巻きをさせた。午前十時、学校へ集まって坂根先生の銃で殺していただく、校舎には石油が撒かれ、最後に、先生が火を放つことになっていた。・・・・

「越冬、興隆開拓団」より

・・・・夜中に非常呼集があり、歩哨に出なければならず、後追いして泣く子にかまけていると、「子どもは処分してしまえッ、突き殺すぞッ」と追い立てられた。子どもに心を残して歩哨に立つ、といっても防寒靴が地に凍りつくので、足踏みしていなければならない。吐く息で防寒帽に氷柱がが下がった。足踏みしながら天を見上げた。天は下界に何が起きようと、月は晧々と輝き、星は満天にきらめいていた。この天の下に日本がある。故郷がある。許されなか
った恋を諦め、人を恨み、何もかも忘れたくて捨てて来た故郷が、無性に恋しかった。・・・・

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井筒さんの「戦争の悲惨さを語り継ぎ、平和を願う」気持ちが半年前に無残にも引き裂かれてしまったことは本当に残念なことです。

以下は井筒さんの今年度初頭の言葉です。

(前略)「21世紀は戦争のない平和な世に」の願いを込めて完成させた戦争体験記。予想以上の大きな反響に、嬉しい悲鳴をあげていたのもつかの間。まさに、あの忌まわしい戦争の世紀に逆戻りするかのような世の動きに、無力感と脱力感を感じます。これからも生きている限り、平和を願い、戦争の愚かさを語り継いでいきたいと思います。

凍土の約束


凍土の約束―50年かけて果たしたラーゲリの誓い

NHKの特集番組として見て感動して手に入れた本。

戦後、ソ連によって捕虜として極寒の地シベリアに連行された軍医だった渡辺さんが、死と隣り合わせの抑留生活の中で1人のルーマニア人の青年、アールヒップさんと出会い友情を育む。その後、アールヒップさんは、誰も生きて帰った者はいないと言われている、さらに北の果ての収容所に送られることになる。護送される前の晩、アールヒップさんは、渡辺さんの元を密かに訪ね、母国に残してきた 許婚に渡すつもりだった金の指輪を託す。必ず君は生きて帰って、婚約者にこの指輪を届けて欲しいと言うアールヒップさんに、渡辺さんは自分の着ていた衣服や下着までもアールヒップさんに手渡し、なんとしても生き抜いて欲しいと涙を流す。

時を経て、ルーマニアの独裁政権が倒され、渡辺さんの手元に「大日本帝国・・」と拙い字で書かれた一通の封書が届く。そして、ついに渡辺さんは死の床にあるアールヒップさんのいるルーマニアへと旅立つ。

時と空間、人種を超えて、出会うはずでなかった二人が時代の波に翻弄されつつも出会い、極限状態の中で友情を育み、再開を果たす姿が何よりも感動的でした。

最もセクシーな男?

sh061806.jpg今日、スーパーのレジの横に置いてある雑誌TV Guideの表紙にTV's Sexiest Manとして載っていた人です。雑誌の表紙を東洋人が飾ること自体が珍しいのと、そのタイトルで思わず目が留まりました。

人気テレビドラマシリーズ「Lost」に出ている韓国系の俳優さんでダニエル・キムという人だそうです。ご覧のとおり、ちょっと日本人受けしない顔立ちだと思いますが、いかにもアメリカ女性に受けそうな東洋男性の顔です。つまり超醤油顔、というかキムチ顔で目は細くてキリリと釣りあがり、ほほ骨が高く顎がしっかりと張っていて、チョットごっつい感じの東洋顔が受けるんです。

知り合いから頂いた雑誌の中に面白い話がありました。デーモン小暮閣下(悪魔の格好をして出てくる芸能人)は、帰国子女なのだそうです。そして閣下曰く「我輩はニューヨークの小学校にいたから、LとRの発音の間違いとか、そいういうことはない。ただし、途中で日本に帰ってきたから、我輩の英語はコドモがしゃべる英語である。だから、向こうのヤツから見れば、発音は悪くないが、しゃべり方がコドモである変なヤツと見るであろう。」

なるほど、と思いました。

日本の外資系企業で働く友達に聞いた話しですが、去年採用した帰国子女の男の子が敬語を知らなくて社長にまで「コーヒー飲む〜」とか、コピーを頼まれると「いいよ〜」とか言ってしまうのだそうです。基本的に、英語で会議が行われる英語優先の会社なので、「変なヤツ」と思われる程度で問題ないそうですが、以前勤めていた日本企業では、やはり言葉の問題で居づらくなったために転職して来たのだそうです。

(もちろん、素晴らしい日本語や英語を話す帰国子女もたくさんいると思いますし、実際そういう方を知っていますが、今回は、そうでない例として書きましたので、帰国子女の方、帰国子女のお子さんをお持ちの方、お許しください。)

こんな例もあります。

知り合いの流暢な日本語を話す屈強なアメリカ人男性は、ガールフレンド達から日本語を習ったことは明らかで、話し方のイントネーションがやけに女っぽいのです。たまに「エーうっそ〜〜!」などと黄色い声を発するので苦笑してしまいます。教わる人がちょっと間違っていた例ですネ。

両親の駐在でアメリカ生まれのある男の子。生まれた時から、触れる日本語は、ほぼ、お母さんの日本語のみだったので、日本語はとても上手なのだけれど話し言葉が女言葉。「ワタシ、なになにナノヨ。」となってしまっていました。この場合は、お母さんが、やはり気をつけて女言葉を使わないように育てることが大切かと思います。

そうでないとデーモン小暮閣下いわく「しゃべり方が女である変なヤツ」になってしまいます。

名は体を顕すと言いますが、その人の遣う言葉も正に体を現すので注意しなければいけないと思います。

「しゃべり方が美しい素敵な人」の例もあります。

友人が、日本の占領下に日本語教育を受けた台湾出身の老婦人と話をしたら、彼女の日本語が、今は死語になったような言葉も使いこなしつつ、それはそれは美しい響きの日本語だったそうで、昔の日本語はこんなに美しかったのか、と感動したそうです。多分、この老婦人は、大変素晴らしい日本の先生に恵まれていたに違いありません。(私が台湾にいたころ、日本の占領下で教育を受けた日本語の大変流暢なご老人に多くお会いしたのですが、明らかに軍属の傲慢な人間から教えられた(叩き込まれた?)のではないかと思う、乱暴な言葉を、そうと知らずに使っている方もいて心が痛んだものです。)

一度身につけた話し方の癖や言葉遣いを途中で修正するのは大変なことです。オードリ・ヘップバーン主演のクラッシック映画“My Fair Lady”のイライザがヒギンズ教授の元で、時には涙を流しながら上流階級の英語を身につけ、やがては蝶のように羽ばたいていく姿を思い出します(この映画見られたことのない方、とても素敵な映画なので是非見てみてくださいネ。)母語であっても、修正は大変難しいのです。いわんや外国語をや・・・です。

「正師を得ざれば学ばざるに如かず」 (大意・・・よき人生の師に出会うことができなかったら、むしろ 学ばないほうがいい)、とまでは言いませんが、語学に関しても師は選びたいものだと思います。

小学生に大人気High School Musical

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053006.jpg次男が大ファンになってDVDもCDもお小遣いをはたいて買ったハイスクール恋愛ドラマ。めちゃキュートな男の子と女の子が恋に落ち、周囲の反対に負けず歌を通して結ばれるというディズニーらしいカワイイらしいドラマ。6〜10歳向け。

CDは車の中で一緒に聞いているのですが、おとなでも十分に楽しめるCDです。息子は毎日ベッドルームにまで持ちこんで寝る前に絶唱しています。

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