http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081207-OYT1T00499.htm
第二世界大戦中、インドネシア沖で撃沈されて漂流中に日本軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に救われた元英国海軍乗組員422人の内の一人、サムエル・フォール卿(Sir. Sam Falle)が、長年、恩人である「雷」の艦長工藤俊作氏を探し続け、89歳にして、ようやくその墓前で手を合わせたという話です。
1942年、フォール氏が乗った英軍艦は撃沈され、乗員422人が重油にまみれながら20時間以上漂流。生存の限界に達していたとき、ようやく現れた船の影。一時は歓喜したものの、船が近づくにつれ、それが日本軍のものとわかり、機銃掃射され最後を迎えると一旦は覚悟を決めます。日本人は冷酷無比と思われていたからです。ところが、船には救助活動中の国際信号旗が掲げられました。艦長工藤俊作氏の「救助せよ」、との英断でした。
船に泳ぎ着いたものの力尽きて沈む者も続出。雷の乗組員は自ら海に飛び込み、救助にあたり、全員を救助。重油でまみれた英兵達の体をふき、衣服や暖かい食事を与えました。フォール氏は、この幸運を信じられる何度も自分の手をつねってみたそうです。
また、救助地帯は激戦区であったにも関わらず、終日、漂流している人を探しまわり最後の一人まで救い、翌日、英兵全員はオランダの救助船に引き渡されたました。
フォール卿は、後にスェーデン大使などとして活躍し、その間も、工藤氏への恩を決して忘れることなく探し続けます。2003年、84歳の時に心臓病を患いながらも自ら日本を訪れますが、消息は知れず。ところが、その後、救助の秘話を知った作家惠 隆之介氏たちの尽力によって、ようやく消息がわかり、89歳という高齢にもかかわらず再度日本の土を踏み、1979年77歳で亡くなっていた工藤氏のお墓参りを果たしたということです。
工藤氏の消息が、なかなか掴めなかったのは、工藤氏が生前、奥さんを含め周囲の誰にも一言も戦争中の体験を語らず、ひっそりと余生を過ごしたためだったそうです。
アンビリバボーというタケシの番組で2007年に紹介された時の動画。感動します。
大変感動し、PCの前で思いっきり涙を流していました。(幸い誰にも見付からずに…)素晴らしいリンクを有難うございました。
感動をどなたかと分かち合いたくて掲載しました。コメントいただけて嬉しいです。名も知られず素晴らしい人物というのはいるものですね。
私の今は亡き父も海軍兵学校の卒業生です。
日本海軍って、かのごとく魂が誇り高いんですよ。志が、今の日本人とはまったく違うんです。国を背負って生きているようなところが、ありました。
真の国際人とは、きっと彼らのような人を言うのだ、と私的に思います。
国のために命を捧げた全ての英霊に、合掌。
みどりさん。それはお父様立派だったでしょうね。そのような姿勢で生きていた分、戦後の絶望は大きかったのでしょうね。
匿名さん。コメントありがとうございます。
戦後、兵学校は解散となり、最後の式で校長から、「これからは君たちが日本を建て直し、引っ張っていかなくてはいけない」と訓示があったようです。父はその後GHQの通訳をしばらくしていたのですが、そのとき同僚の方と撮った写真の裏に、「これから日本は一体どうなってゆくのだろう?しかし、これは新しい夜明けでもある。」と、期待と不安が入り混じった言葉が書き残してありました。(父がなくなったあと、初めて母が見せてくれました。)若かったからこそ、強い意志が持てたのだろうと思います。 S.Heartさん、すみません、長々と失礼しました。
過去からの貴重なメッセージですね。メッセージの中のエネルギーが時を越えて伝わってくるようです。
S.Heartさん
彼らは「五省」で育っていますから、(興味のある方はウィキで調べてみてください)なまじっかなことでは凹まなかったようですね。ただ、そういう人を父に持って良かったのかというとそれはまた別問題でして、(笑)思春期の悩みとか、日常の細々とした悩みを話すのもはばかられるような存在でした。(だから、いつも母を通して会話していた)私は母に近い、えらく庶民的な人に育ち、弟は見事にプライドの高い嫌なやつに育ちました。どちらがいいんだか。(笑)