マザー・テレサ


昨日、レンタルビデオで借りて見ました。子どもの頃に見たあの美しく初々しいロミオとジュリエット主演のオリビア・ハッセー(当時15歳)。久々にスクリーンで見て(50歳)時の流れを痛切に感じましたが、彼女が、素顔で演じているマザーテレサは、写真で親しんでいるマザーと無理なく重なるものがあり、十分に感動できるものでした。この映画を見て、SweetHeartで紹介したQuoteの意味がよりよく理解することができました。
People are unreasonable, illogical, and self-centered. Love them anyway.
If you do good, people may accuse you of selfish motives. Do good anyway.
If you are successful, you may win false friends and true enemies. Succeed anyway.
The good you do today may be forgotten tomorrow. Do good anyway.
Honesty and transparency make you vulnerable. Be honest and transparent anyway.
What you spend years building may be destroyed overnight. Build anyway.
People who really want help may attack you if you help them. Help them anyway.
Give the world the best you have and you may get hurt. Give the world your best anyway.”
— Mother Teresa
マザーは、この言葉を観念的に言っているのではなく、実際に自分の経験に基づいて言ったのだと理解できました。

できれば「マザー・テレサ−あふれる愛」を読んでから、この映画を見ることをお薦めしたいです。この本は、マザーの活動を10数年にわたって撮り続け実際にマザーと深い交流のあった日本の写真家が綴ったものでです。本では、時間の限られた映画では描ききれなかったマザーの子どもの頃の様子、彼女の思想の原点がより詳しく描かれています。
本の中の数ある写真の一つに日本人の商社員の奥さんが割烹着を着てマザーの活動を手伝っている姿がありました。日本の駐妻は、こんな所にもいるんだ!エライ!強い!すごい!と感動しました。
Mother TeresaのQuote
“Peace starts with a smile” 「平和は微笑みからはじまる。」
I have come to realize more and more that the greatest disease and the greatest suffering is to be unwanted, unloved, uncared for, to be shunned by everybody, to be just nobody [to no one]
–Mother Teresa
「最悪の病気と最悪の苦しみは、必要とされないこと、愛されないこ
と、大切にされないこと、全ての人に拒絶されること、自分がだれで
もなくなってしまうことだと、より実感するようになりました。」
−−マザー・テレサ
Do not wait for leaders. Do it alone, person to person
–Mother Teresa
「リーダーを待つのはおよしなさい。一人で、人から人へと行え
ばいいのです。」
“We ourselves feel that what we are doing is just a drop in the ocean. But the ocean would be less because of that missing drop.”
— Mother Teresa
In the West there is loneliness, which I call the leprosy of the West. In many ways it is worse than our poor in Calcutta.
「西洋では孤独があります。私は、それを西洋のらい病(ハンセン氏病)
と呼びます。多くの意味で、それはカルカッタの私たちの貧しさよりも
ひどいことです。」
—Mother Teresa

日本と人種差別主義(Japan & Racism)

1ヶ月ほど前に掲示板で、どなたかが教えてくださったエッセイです。日本人にとっては痛い所を疲れる部分もあり、読む人にとっては、もちろん賛否両論とは思いますが、興味深いエッセイでしたので、筆者に許可を得て転載、翻訳しました。作者http://dyske.com/というブログを運営されているグラフィック・デザイナーさんです。(つたない英訳です。最後に原文も貼り付けましたので、どうぞ原文も読んでみてください。)
———————————–
日本の人種差別はアメリカのような真の多人種国家とは明らかに違います。私が過去のエッセイで述べたように、人種差別には、無意識的/心理的人種差別と意識的/イデオロギーの人種差別という二つの違った形があり、それらは別々に扱われなければなりません。私たちは皆、前者(無意識的/心理的)の意味合いにおいては、多少なりとも人種差別主義です。後者(意識的/イデオロギー)の場合においては、われわれは人種差別主義であるかないかを選ぶことができます。日本人は外国人に過度に親切である一方、他のどんな国民にもありえるように不躾にもなりえます。
平均的な日本人は白人、黒人を、そしてある程度ヒスパニック系の人々を憧憬しています。なぜそうなのかという理由はたくさんあります。それは、ただ単にルックスだったり、より深い文化的なもの心理的なものだったりもします。どんな国民も、違った形での自己嫌悪があります。孤立した島国に住み、大多数の日本人は実質的に外国文化に接したことがありません。自身の国を大変誇りに思っている人でさえ、他と比べるほどの知識がないために、どうしても確信を持ち切れません。このちょっととし自信のなさが毎日の生活の中で微妙な形で現れています。たとえばアメリカでは小さなコーヒーショップでさえ「世界一のコーヒー」と謳ってしまいます。ほとんどの日本人はとても「世界で一番」などとは恐れ多くていいません。なぜなら単に世界についてそれだけ十分な知識があるとは感じていないからです。ほとんどの場合、「日本一」というのを見かけるだけです。
日本はインターナショナルな国でありたいと思っていますが、それほどインターナショナルな国ではありません。ほとんどの日本人のアーティストや知識人は世界で認められる努力をしています。今日でさえ、平均的な日本人は外の世界は異質の領域であると感じています。外国に行くとなると皆が、いまだにスタートレックのような心理になります。世界で認められたいという渇望は絶望的なほどで、逆の心理が働いてに国際的社会を語る時、熱烈な国粋主義者的なトーンになってしまう人もいます。
国際的であることは高く尊敬されるステータスです。それは映画、テレビ、印刷物などのメディアによって多量の外国文化を消費する孤島の住人として当然の結果です。それは、飼いならされた猫が外で走り回りたいと夢見るけれども、実際にドアから外に一歩踏み出すのは恐ろしすぎてできないと感じているようなものです。これは日本独特のものではありませんが、井の中の蛙であることのコンプレックスはかなり深いのです。
国際人であるために明確な特徴は外国人と友達になったり関わったりすることです。外国人の友達を1人持つことはヨーロッパ製の高級車を持つことと匹敵するステータスです。この目的のための友人はアジア人以外ということです。たとえば中国人の友達を持つことは同じ地位にはなりません。なぜなら中国人は日本人と外見が違わないからです。
日本に住む黒人または白人は、概して自分達が望む以上の注目を浴びてしまいます。英語の練習相手を探している人もいれば、友情を求めている人もいるかもしれません。あなたと話したいと思っている人を見つけるのは、さほど苦労しないでしょうが、真の友人を作ることは、より難しいかもしれません。それは有名人が突き当たる状況と幾分似ています。注目を浴びる割りには孤独だと感じるかもしれません。まず真の友人関係を築くことは難しいことです。文化の境界を越えることが、さらに困難にします。
個人的には、アメリカでの私の生活のある時点において、私は日本人だとかアメリカ人だとかいう境界線を越えましたが、今の私にとって日本人は異質な存在に思えます。私には友達と呼べる日本人が1人もいません。もし、まだ日本に友達が残っているとしたら、自慢できることですが、皮肉なことに私は境界線を遠くまで越えすぎてしまったようです。私は日本に戻る度に、外見は完璧な日本人なのに適切な日本語をしゃべれず、基本的な習慣の多くを知らないために、おつむが弱いと思われてしまいます。彼らの目には私は国際人であってもおつむが弱いことには違いないのです。ですので残念ながら私は国際人というステータスを享受できないのです。
銭湯に外国人を入れないというよく知られた日本人の偏見には、立派な心理的理由があります。日本は単一民族の国なので、多くの社会システムは、標準的な行動というものがある、という大きな仮説の基に成り立っています。これらの文化的規範を知らない外国人は、これらの方程式に当てはまりません。規範が壊された場合、大方の人は、その状態に対処することは気まずいと感じます。特に、銭湯のようなパーソナルなことに関しては、全ての人の未知への恐怖があらわになります。ここに来て恐怖心が良心を説き伏せてしまうのです。
一般的な日本人にとっては国際的であることはファッションと同じです。日本人は単にファッショナブルなので国際的でありたいのです。それは外国貨幣での貿易と似たようなものです。利益は、自分の国の貨幣に戻した時にのみ認められるのです。つまり、その人の成し遂げたことが測られる基準は日本の基準によってでなければならないのです。たとえば、ある基準がアメリカにおいて高く評価されていたとしても、日本ではそうでない場合があります。またその反対の場合もあります。人生の中で成し遂げる目標が何であれ、その功績が認められ、評価される背景に気づかなければなりません。そのために、外国旅行をする日本人の若者のほとんどは、いつかは日本に戻る計画をしています。というのは、彼らの基本通貨は常に日本通貨だからです。永久に移民しようと決める人はそうは多くありません。もし永住を決めた場合、その功績はアメリカのスタンダードに対して測られなければなりません。たとえば、私のここでのグラフィックデザイナーとしての業績は、日本ではグラフィックデザインが一般的に社会的な落ちこぼれとしての仕事と見られているので、大変評価が小さいです。アメリカ人がヘア・スタイリストに対して感じる評価と同じです。反対にアメリカでは、たとえば東京大学卒ということは、ほとんど大きな価値を認められていません。日本で期待しうる全ての尊敬は過去の人生のもとのして置いて来なければなりません。
それが意識的な選択であろうとなかろうと、私たちは自分自身と他人を測るのに基本通貨を使います。単一文化しか持たない人の多くは自分自身の価値観がどれだけ文化的な偏見に基づいているかに気づきません。これがしばしば外国的な摩擦になるのです。それぞれの人が自分の価値観を主張し、違う見方を進んで学んだり受け入れようとしません。国際的な外交においては日本は、ほとんどの西洋諸国よりも理解することにより優れています。なぜなら日本人は自信のスタンダードに十分な自信を持っていないからです。日本人のスタンスは普通大変受身です。アメリカの政
治家や旅行者は、日本人がアメリカの欠点を指摘するよりも、はるかに早く日本の欠点を指摘します。これは日本人とは全く逆の問題、アメリカ人の自信過剰の産物なのです。
———————————————-
彼のエッセイ、全部読むにはとても多いのですが、私がいくつか拾い読みしてみて面白いと思ったのが、
11-19-05: Idiot’s Guide to Being Happy
10-02-03: “Lost in Translation” Is Lost With or Without Translation
———————————————-
Japan and Racism
Racism in Japan manifests differently from it does in truly multi-racial countries like the US. As I have said in my past essays, there are two independent forms of racism: unconscious/psychological racism and conscious/ideological racism. They must be addressed separately. We are all racists to a degree in the former sense of the term. In the latter case, we choose to be or not to be a racist. Without distinguishing these forms of racism, we cannot effectively analyze racism in Japan. On one hand, Japanese people can be exceedingly nice to foreigners, but on the other, they can be as rude as any nation can be.
The average Japanese people idolize White, Black, and to a certain degree, Hispanic people. There are many reasons why they do. Some are simply about looks, while others are more deeply cultural and psychological. Every nation has a different form of self-hatred. Living on an isolated island, the vast majority of Japanese people have never been exposed to foreign cultures in any substantial manner. Even those who are proud of their own country cannot help feeling insecure because they do not know enough to compare themselves against others. This relative lack of confidence manifests itself in subtle ways in their everyday lives. For instance, in the US, even a little coffee shop would claim itself to be the “World’s Best Coffee” as a figure of speech. Most Japanese would not dare say anything is “world’s” best, because they simply do not feel like they know enough about the world. In most cases, you will only see “Japan’s best.”
Japan is not a very international country though they wish they were. Most Japanese artists and intellectuals strive to be internationally recognized. Even to this day, the average Japanese perceive the outside world to be a foreign territory. Everyone still has a Star Trek mentality when it comes to going abroad. Their desire to be internationally recognized can be so desperate that some would employ reverse psychology with a fervently nationalistic tone in speaking of the international community.
Being a cosmopolitan is a highly respected status. It is a natural consequence of being an isolated islander who consumes a huge amount of foreign culture in mediated forms like film, television, and print. It is like a domesticated cat that dreams of running around in the streets, but is too scared to actually step outside of the door. This is not unique to Japan, but their complex about being the frog in the well is quite deep.
An obvious trait of a cosmopolitan is to have friends and associates who are foreigners. Having one is equivalent in status to owning a European luxury car. For this purpose, any race other than Asian would do. Having a Chinese friend, for instance, would not have the same cachet, because he/she would not look any different from a Japanese.
As a Black or White person living in Japan, you would typically draw more attention than you wish to. Some are looking to practice English, while others may be looking for friendships. You would not have much difficulty finding someone willing to talk to you, but making a true friend might be more difficult. It is a situation somewhat similar to the one celebrities face. Even with the amount of attention you get, you might still feel lonely. True friendship is a difficult proposition to begin with; going across cultural boundaries only adds to that difficulty.
Personally, at some point in my life in the US, I crossed the line of being Japanese and being American, and now Japanese people seem foreign to me. I do not know a single Japanese person whom I could call a friend. If I still had some friends left in Japan, this would be something that I could brag about to them, but ironically I seem to have crossed the line a bit too far. Whenever I go back to Japan, people think I am retarded because I am unable to speak the language properly, and am unaware of many of the basic customs even though I look perfectly Japanese. A retarded cosmopolitan is still a retard in their eyes, so unfortunately I cannot enjoy the status of being a cosmopolitan.
As for the well-known Japanese prejudice of not accepting any foreigners into public baths, there is a good psychological reason. Since Japan is a very homogeneous country, many social systems are formed with vast assumptions about what is considered normal behaviors. Foreigners, who are not aware of these cultural norms, are simply not in these equations. When the norms are broken, very few feel comfortable in dealing with the situations. Especially when it comes to something as personal as public baths, everyone’s fear of the unknown becomes pronounced. This is where the fear speaks louder than the conscience.
To the average Japanese people, being international is a matter of fashion. They want to become international simply because it is fashionable. It is very much like foreign currency trading, where the profit is recognized only if you come back to your base currency. That is, the standard by which your accomplishments are measured must still be Japanese. For instance, some accomplishments may be highly respected in the US, but not in Japan, or vice versa. Whatever you aim to accomplish in your life, you must be aware of the context in which your accomplishment is recognized and valued. For this reason, most Japanese youths who travel abroad plan to go back to Japan eventually. That is, their base currency is still Japanese. Not many of them decide to permanently immigrate. If you so decide to stay, your accomplishments must be measured against the American standard. For instance, my achievement here as a graphic designer would mean very little since graphic design in general is seen as a job for a social dropout, somewhat equivalent to how we perceive hairdressers here in the US. Conversely, a degree from Tokyo University, for instance, would be significantly devalued. All the respect you could expect from it in Japan must be left behind as a thing from your past life.
Whether it is a conscious choice or not, we all operate on a base currency by which we measure ourselves and others. Many of those who are single-cultured do not realize how much of their values are culturally biased. This often is the cause of diplomatic conflicts; everyone is convinced of their own values, and is unwilling to learn or accept different views. When it comes to international diplomacy, Japanese are better than most Western countries about understanding, because they do not feel confident enough about their own standards. Their stance is usually very passive. American politicians and tourists are much quicker in pointing out what is wrong with Japan than the Japanese are with America. This is a product of American over-confidence, a problem at the opposite end of the spectrum.
By Dyske Suematsu | Jun-6-02 11:17P | ed. DS 12/24/03

“私”はなぜカウンセリングを受けたのか


私”はなぜカウンセリングを受けたのか―
「いい人、やめた!」母と娘の挑戦

女優東ちづるさんの「私には青春の記憶がない」という告白から始まる。
SweetHeartのメルマガを読んでくださっている九州お住まい先生が生徒さんに好評だったということで推薦してくださいました。早速、「読書のすすめ」から取り寄せて読んだのですが、久々に本に吸い込まれるように読んでしまいました。
東ちづるさんと言えば、完全無敵の美人&才女というイメージがありますが、彼女が「アダルトチルドレン」という自分自身の心の闇に母親とともにカウンセリングを受けながら迫った記録をまとめたものです。
私はアダルトチルドレンという言葉の意味をよく知らなかったのですが、主な特徴は
▲自分を受け入れられない=「ありのままの自分」を受け入れられない。
▲自分の欲求がわからない=周囲の期待や要求に反応して行動してきた為、自分の欲求や感情がわからない。
▲本当の自分を主張できない=なにかを主張して相手に拒否されることを恐れ、自分の欲求を主張できない 。
という点で、特に小さいころから優等生として母親の期待に応えるため、頑張ってきた長男や長女に多い傾向だそうです。(アメリカではアルコール依存症の患者に、このような傾向が多いそうです。)
東さんが、カウンセラー長谷川氏とのセッションを重ねながら、「青春の記憶が抜け落ちてしまった理由」、心の奥底に長年秘められていた暗闇の謎を解き明かしていく様子や、最終的には母親も自分を変えて行く過程がとても興味深く、アダルトチルドレンでない人も、自分の深層心理を考えさせられる一冊。

Continue reading “私”はなぜカウンセリングを受けたのか